はじめに

ひとり同人誌を出しています。

とてもひとさまに読んでもらえる代物ではないとは思いながら、批判され、非難され、笑われるのも修行のひとつ、と開き直って、冊子にまとめました。
もっと多くの皆様に読んでいただきたいと願い、ブログ発信を思い立ちました。
どうぞよろしくお願いします。160515

2023年6月16日 (金)

狂女の目の淋し色に

K朗は二、三ケ月毎に随筆まがいのものを書き送ってきていた。それがこのところ途絶えているナ、と思っていた四月半ば、少し分厚めの封筒が届いた。

 K朗は自由律の俳句とも短歌ともつかないもので時候の挨拶文を済ませると、性急に近況報告をはじめだした。これはいつものことで驚きはしなかったが、つぎの一節には〃ナニ?〃と虚を突かれた。〃先月の九日に軽い脳梗塞を発症、左半身、腕と脚が重く、思うように動かせない。診察の結果、即入院〃と書かれている。先月九日と言えばもう四十日前。仲間うちでも一番元気な奴だけに晴天の霹靂であった。

 最初収容された病院で脳梗塞の治療はおわり、その後、リハビリ専門の病院へ移動。日に約一時間ずつ三回、機能回復訓練室で療養士の指導を受けているとある。内容はともかく、手紙文は、コロナ感染予防で外部とは隔離状態にある病室からのものとは思えぬほど、明るく、左半身の自由が奪われたという困惑も感じさせなかった。しかも、つぎのような内容に、彼ならではのものと思わせられた。

 リハビリ専門病院では入院当日とその翌日は特別な個室で、コロナ感染の検査、で入院当日はその部屋で就寝となった。ところが、ベッドメイクをしてくれた看護女師が「夜中にドンドン音がしますが心配いりません。隣の部屋の入院患者が夜になると、壁を手で叩き廻るのですから」と言い置いて部屋を出て行った。

 たしかに、真夜中の二時間ほど、壁を叩く音がした。少し遠い音が次第に近づき、また遠のく、が何度か繰り返された。一様な音なら寝付けたかもしれないが、音に強弱があり、遠のいたり近づいたりすると、聞き耳を誘われついに音のある間は寝付けなかったらしい。

 幸いコロナは陰性で、二人部屋へ移り、落ち着けたと同時に、二日目から、早速機能回復の訓練がはじまった。と、大声で喚きちらす、六十前後の女性患者が車椅子を看護女師に押されながら訓練室へ入ってきた。彼女は興奮状態にあるのだろう、目は怒り、焦点が定まっていない。いわゆる怖い目で喚きちらしていた。

〃この病院では精神的リハビリもするのか〃と思った、とK朗。が、そうではなかったらしい。女性は明らかに身体的機能をかなり麻痺させていた。彼女が訓練後自室へ帰って行くのをなんとはなしに目で追っていると、昨晩ドンドン壁を叩いた一人部屋の患者であった。その時は気付かなかったが、翌日、彼女の両手には鍋掴み様のデッカイ手袋が穿かされているの見た、と、手紙の文字が驚いている。
 その後二、三日は、廊下や訓練室で大声を耳にするだけでやり過ごしていた。

 そして一週間後、彼女は訓練室の片隅に車椅子を寄せて、訓練の順番待ちをしていた。この時、彼女は物音一つたてず、むしろ淋しいほどに静かだった。〃いるナ〃と目の片隅で捉えながらK朗は通り過ぎようとしたと書く。と、彼女が分からないほどに、K朗に目だけで会釈するのが感じられた。咄嗟に〃なぜ?〃とK朗は訝ったらしい。だが、その時はそれだけだった。

 こんなことが幾度か重なった。そのうちにK朗は、目だけの会釈から、軽く頭を下げる会釈を彼女に返すようになっていた。しかも彼女が会釈するのは〃わたしだけ〃であることにも気付いている。ただ、彼女の気持が興奮状態にある時は会釈など、とんでもないことではあったらしいが…。

そんなある日、K朗が彼女の間近を通り過ぎることがあり、会釈する彼女の目をはっきり捉えることがあったらしい。彼女は小顔で目は、大声で喚きちらす目ではなく、むしろ幼い子供の目のようにキョトンとしたものであった。そんな幼子のような目に、静かで淋し気な色合いが一瞬よぎるのを見て、〃オヤ!〃と感じたとK朗。〃同時に、なぜか、単なる会釈を越えて、通じあうものを感じたらしい。それがなにか、明確にはわからなかったが、ただ〃彼と我〃と分立しあっていた気持がゆるみあうのを覚えた、と手紙文が暖かみを含む。

 そんなことがあった翌日、K朗は病室からビル群に遮られた角の尖った星空を眺めていて、フッと芥川龍之介の『點鬼簿』を読んでみたくなったらしい。

 『點鬼簿』は、龍之介が自殺した昭和二年七月の十カ月ほど前に出した小文。内容は題名通り、鬼籍に入った人を語るもので、実母、実父、そして龍之介が産まれる前に亡くなっていた長姉の初ちゃんの三人。このうちK朗が読みたいと思ったのは〃実母〃のくだりであったと言う。
 手紙は、『點鬼簿』の冒頭の一節「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」が引用してあり、そんな龍之介の母への心情が、母の最期、「僕の母は…殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬまえには正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落とした。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた」と書く、龍之介の母への心情の変容傾斜を、K朗は丁寧になぞっていた。

 龍之介の母親が死んだのは、彼が十一歳の秋で、それ以前に、養母に連れられて、母親の実家を訪ねている。その時の母親を「髪を櫛巻きにし、…一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」とし、その様子を中国古典にみる〃土口氣泥臭味〃という言葉で表現する。この時少年龍之介は母親に長煙管で頭を打たれている。K朗はこのシーンの印象が強く『點鬼簿』を覚えていたという。ただ、この打撲が少年龍之介にはどんなものであったか、痛かっただけか、痛みをともないながらも、母親の確かなメッセージとうけたかは分からない。が、「母は如何にももの静かな狂人だつた」と親しみを感じさす描写で龍之介はこの場面を終えているとK朗は結んでいる。

 そして、この短文は母親の最期の場面に向かう。 「危篤の電報でも來た為であらう。…僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず聲を立てて泣いた」と書く一文では「僕」が重複して使われている。ただこれらの「僕」は、『點鬼簿』冒頭の「僕の母は狂人だった」の「僕」に見る母親との距離感を感じさせなくなっていると、K朗。
 そんな親近感が、臨終の母親の描写に凝縮しているという。

「死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落とした。が、やはりふだんのやうに何とも口はきかなかつた」と。

 文章を辿ると、『點鬼簿』はそんな龍之介少年の心情の変容を書く、だけだったか? それだけではない気がする。狂人の母を龍之介自らの内に納め込もうとすると同時に、自らが狂気への傾斜を滑り落ちる不安、その中で、明確な意識の世界に踏みとどまろうとする渾身の気概があったのではないか。そんなことも感じるとK朗は書きたしている。

 同じ機能回復訓練室で、いらだつ感情を剥き出しにする女性の目に瞬時見えた淋し気な色合いに誘われ、K朗は『點鬼簿』が読んでみたくなった。と書いて手紙は終わっていた。が、K朗にしては珍しく追伸が付いている。

〃以上、長々と書いたが、一つ引っ掛かるところがある〃として次ぎのような一文を付け加える。

龍之介の母親が臨終の床で、「正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落した」とあるが、この時、母親は「八畳の座敷に横たはつてゐた」のだから、「ぽろぽろ涙を落した」は不自然な表現。普通は〃涙を流す〃であろう。

 と、すると、この龍之介が書く文章は〃正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしに(涙を流した。僕等も)ぽろぽろ涙を落した〃とよまねばならないのかもしれない。あるいは、そんな全体の光景を含みこんだ表現になっているんだろうか?

 ただ、こんな書き方は俳句などでは有り得るかも知れないが、散文では見たことがなく、素直に読んでおけばよいのかもしれない。でも、引っ掛かる言葉使いではある、と文章を伸ばして終わっていた。

                               名なし川 春のくもりを 映しゆく

2022年6月21日 (火)

川口の万葉語り

開店そうそうの客が三人減り、一人去り、二人が出て行きママさんもヒロ子さんもひと息いれているところへ、川口が暖簾を分けて、いつもの呑気を絵に描いたような顔ではいって来た。
「今晩は!」
「いらっしゃい川口さん。この前の台風大丈夫でしたか?」とヒロ子さん。
「大丈夫だったけど、京都あたりは屋根瓦が飛んだりしたと、ニュースでやっていた。もちろんヒロ子さんもママさんところも大丈夫だったのでしょうね」に、ママさんが、
「少し風は強かったが、台風というより、天気が変わる時の風のようで迫力なかった」と涼しい顔。
「風が吹いているさなかに、中田に電話をいれると、〃ただ今、風見酒。木々がまるで喜んでいるように揺れはしゃいでる〃と京都の人が聞いたら怒りそうなことを言ってたよ」
「雪見酒は聞いたことあるけど、風見酒なんて聞き始め」とヒロ子さんが、笑い声を挙げているところへ、中田が、
「今晩は」と顔を出した。


「中田さん、この前の台風の時、風見酒だったんですってね」とママさんが挨拶がわりに声をかけた。
「マンションの三階を越える落葉樹と、少し低い桜並木が、あんなに喜ぶ姿、初めてだった。川口センセイはどうだった?」と中田が、川口へ話題を振ると、
「ちょっと調べ物をしていた。万葉集と、奈良時代を記録した続日本紀を突き合わせていた」
「それは高尚ナ。私メの風見酒とは雲泥の差。その成果を御披露願いたい。ママさんどう?」
「賛成。ヒロちゃんは?」
「勿論賛成!」
だろうという目で中田が川口に、始めろよと合図。それではといつもの川口の万葉語りが始まった。


「巻十五の巻頭の百四十五首は、第十五次遣新羅使がその行路で詠んだ歌が、物語り風に構成されているんだ。この遣新羅使は、天平八年(七三六)二月に阿倍継麻呂が大使に任命され、四月に拝朝しているから、その後間もなく出航していると考えられる」
「随分多くの人が船に乗り込んでたんでしょうね」とヒロ子さん。 「遣唐使のばあい漕ぎ手である水手も含め一船に百二十~六十人が乗っていた。それに近かったと思える」
「小さい船に鮨詰め!」とママさんが驚く。


「この船が難波津から瀬戸内海を経て、那大津(博多)そして、壱岐、津(対)島と辿っていくが、航路の島々の名前などが克明に書き出されているよ」
「千二百年以上前だから、今の地名とはだいぶちがったでしょうね」とママさん。


「それがそうでもないんだ。違うのもあるが、今と同じ地名もおおい。まず武庫の海が登場、武庫は今も武庫川に名前がのこる。明石、長門。家島は牡蛎で有名な坂越の沖合に今も家島諸島が浮かぶ。倭奴国王という金印がでた福岡の志賀島をいう志賀、松浦、津島など同じ地名で登場している」
「その遣新羅使は、うまく役目を果たし、無事帰国できたんでしょうね?」とママさんは、飲み助二人らからちょっと離れたところで、心配顔をした。


 話はここで一段落。喋りすぎた喉を潤すために、川口はビールのお代わりを注文。旨そうにビールを飲み干す川口を横目に中田が、『それからどうなった』と、目で合図する。

 
「それがうまく行かなかった。新羅へせっかく海を越えて使いしたのに、新羅は使節団を追い返すような仕打ちだったと帰国した遣使が、報告している」
「苦労して新羅まで行ったのに、相手にされなかったなんて…」とママさん。


「無礼と怒る者、その訳をただせとか兵隊をだして新羅を征伐なんて声もでたようだ」に、中田が、
「そんなに日本と新羅の間には溝があったのか?」


「新羅は六六〇年代に唐の力をかりて、朝鮮半島を統一していた。しかも、その後新羅を管理監視していた唐軍、当時の唐帝国は回りの国々を鼠とすれば、巨象のような存在だった。その唐の軍隊を新羅は独力で追い返したんだ。次はその兵力で日本を攻めてくるという、危機感が充満していた。それから約六十年後の遣新羅使であったが、新羅は対唐一辺倒で日本など相手にはしなかったようだ。当時の新羅の王は聖徳王と書きソンドクワン、唐はあの名高い玄宗皇帝だった」
「今日の万葉語りは歴史編というところ?」と中田が合いの手をいれた。
「本当、なんだか難しい」とママさん。


「いいえ、歴史語りではありません。次に紹介する歌はそれ以後の古今集や新古今集にはみられない、万葉集独自の世界です」に、ヒロ子さんが、
「わたしは、川口さんのお話しに最初からずっと期待しています。川口さん喉を潤して、続けてください」と、応援。このヒロ子さんの励ましに、ひと息ついた川口は、
「この遣新羅使の旅は、伝染病に苦しめられた。〃玉敷ける清きなぎさを 潮満てば 飽かず 我行く 帰るさに見む〃訳すると、こんなに清らかな渚であるが、潮が満ちてきて出帆しなければならない、いつまでも見ていたい。きっと帰りには目を楽しまそうとなる。ところがこの歌を詠んだ大使の阿倍継麻呂は帰路、津島で病没。副使の大伴三中は帰国はしたものの、病気で一カ月あまり平城の都へは入れなかった」
「新羅で病気をもらって来たんでしょうか」
「ところが、帰路の病没や病気ばかりではなかった。往路でも病没した人間がいた。きょう、登場させる雪宅麻呂、ユキノヤカマロがそれなんだ」


中田もママさんも、ヒロ子さんも川口の次の言葉をまった。
「船が山口と九州に挟まれた、下関手前の周防灘で逆風にあい漂流した。この時〃大君の命畏み大船の行きのまにまに 宿りするかも〃、大君の仰せをかしこみ、大船が漂い行くままに、船の中で浮き寝をして夜をすごす、と詠んだ雪宅麻呂であったが、その後に〃壱岐の島に至りて、雪宅麻呂(満)、たちまちに鬼病に遇いて死去」と書く。船上の遺体は航路近くの島などに埋葬したらしく、壱岐の島の端っこの石田野という所に埋葬している。これに対し同船した仲間の一人が〃石田野に宿りする君 家人の いずらと我れを問はば いかに言はむ〃と詠んでいる。帰朝した時、宅麻呂の家人、母親や妻が、宅麻呂はどこに居ます? 見かけませんでしたか、とわたしに問いかけたら、どうこたえよう。こたえられない…というのを見つけた」。
「………」。


川口の話がおわった後、しばらくはだれからも言葉がなかった。 
「なるほどなあ」と中田が口をきったが、だれからもそれに続く言葉はでなかった。そんな雰囲気を破ろうと川口が話し始めた。
「死んだり病気したりしても、正史に名前がのこる上級者はまだいい、いつ生まれいつ死んだかもわからない庶民や下級役人など、万葉集だからこそ書き止めている。ところが万葉集以後、歌集が貴族化、高尚化すると、もはや庶民の陰すらとどめない。万葉集が他を絶するところだ。……ますます万葉集にはまっていきそう」に、やっときもちを持ち直したヒロ子さんが、
「川口さん、もっと万葉集にはまって、わたしたちに歌の数々を話してください」と改めて注文。ママさんはと見ていると、無言のまま奥へ姿を隠した。と、中田が、
「きょうは酒をしみじみと味わおう」と、珍しく冷や酒、純米濃潤を注文した。

 

2021年7月14日 (水)

死別

 梶井基次郎の『城のある町にて・ある午後』のつぎのような文章にでくわした。
〃可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たいといふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七を出ない頃の家を出て此の地の姉の家へやつて來た。ぼんやりしてゐて、それが他所の子の泣聲だと氣がつくまで、死んだ妹の聲の氣持がしてゐた〃
 この一文が、随分昔に母親がわたしにもらした話をおもいださせた。
 わたしには四歳上に、フクという姉がいた。いた、といったが、当時一歳の誕生過ぎでフク姉さんの記憶は皆無である。
 この姉が近所のおばさんに連れられて、出店がならぶ縁日の神社へ。そこで良からぬ物を買い食いしたらしい。その晩、姉は「おなかが痛い]と言いいながら寝たらしい。ところが、翌朝、母親は異常に気づき部屋へ飛び込んだが、その目の前で引付けを起こした。めったに父母二人で出掛けることがないのに、
「珍しい、二人の足早な姿だった」と、これも後年近所のおばあさんから聞いた。
 フク姉さんを抱いた二人は近所の病院へ飛び込んだが、赤痢だか疫痢だかですでに手遅れだった。
 フク姉さんを死なせたあと半年ほどは、家の前を女の子が泣いて通ると母は
「〃フクが帰ってきた〃と何回外へとびだしたか」と言っていた。そして、
「〃一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため…〃とフクの通夜で唱えられる地蔵和讚、親にとってはたまらんかった」と、つらい目をしばたたかせていた。
 父親が悲しみを見せたのをしらない。しかし、引率したおばさんには深い恨みが続いていたと思えた。わたしが物心つくころにも、父親はそのおばさんへは険のある言葉遣いだった。
わたしには、フク姉さんの死を悲しくおもったことは無かった。それより、これも母から聞いたことだが、フク姉さんはわたしのことを誰彼なしに、
「ウチノ坊ハ、カワイイカワイイネデ」とまだまわりきらぬ口ぶりで言っていたという。この姉の言葉を、わたしは長い間口の中で反芻していた。すると、〃ウチノ坊ハカワイイカワイイ〃と言われた幼い自分にタイムスリップするのであった。
 こんな記憶がさらに、飛躍して義弟の死の思いでにつながった。 二十五、六歳になっていたわたしはすでに結婚していた。そんなある夕方、近所の縄暖簾から帰ってみると、義弟が服毒したと電話がはいった。まだ二十二歳。妻はすでに救急車で搬送された病院に駆けつけていた。ほろ酔いもけしとんだわたしが、病室へ飛び込むと、ベッドで意識をうしなっている義弟は胃洗浄のため口や鼻から管を突っ込まれている。
「どうした?」と叫ぶわたしに妻は、
「睡眠薬を一瓶飲んだらしい」とおろおろ声。
 連絡で駆けつけた友人やわたしたちをよそに、義弟は無表情で眠りつづけるだけであった。
「今夜がヤマです」という医師の言葉に細い希望をたくして見守るなかで、義弟はついに目覚めることなく、その夜半に息をひきとってしまった。
 お通夜から告別式は、集まった人全員、容易に言葉が出ないほどに、ショックと痛ましさに打ちひしがれていた。
「なんで死んだんやろか」とだれかがボソッと漏らす。これに誰も返事はしない。おそらくお通夜にあつまった全員が同じ思いだったのであろう。
 妻はお通夜が始まる前から泣き通しだった。なんとも可哀想で、泣くのをただ見守るしかできなかった。どんな言葉もその場にふさわしくなかったうえ、誰も言葉がないのだった。
 翌日、出棺となり、義弟とは最後の別れという場面で、妻はまるで魂をうしなったように、目をあらぬ方にやって、無表情、呆けていた。悲しみも涙も尽きてしまったように思えた。
 葬式の後、二晩を妻の実家で過ごした。と、夜遅く家の前を行く足音が耳に入ると、わたしは〃義弟が帰ってきた〃と思った。しかし、仏間に並ぶ白い布袋に納まった骨壷を目にして、
「そうか、あれは義弟ではない」と自分に言い聞かすのだった。
 それから、一週間ほどしてわたしは夢をみた。
 夢でわたしは二階の部屋で寝ている。その階段の上がり框で、義弟がしきりに、『うどんを食いに行こう』と誘う。『今、いきたくない』とわたしが応えている。義弟の誘いは執拗だった。その誘いをわたしは、執拗に断り続けて目が覚めた。しばらく、ボヤーッとしていたが、しだいに意識がかえってくる中で夢を思い出していた。『誘いに乗らなかったな…!』と思いだしながら、なぜか『そんなもんか!』と、ひとり納得しながら明るくなった窓に目やっていたのだった。

2021年1月27日 (水)

爽やかってどんなこと?

 お客さんが立て込んでいる間はおとなしく熱燗を口へ運んでいた川口が、お客さんの姿がまばらになりだすと、ヒロ子さんに話しかけた。
「ヒロ子さん、爽やかという言葉を聞いてどんなことをイメージする?」と。猪口を口へはこんでいた中田はなんのことかという顔をして、
「川口センセイ、今日はまた、異な質問を始めましたな」と、口元をニヤニヤさせる。比べてヒロ子さんは真顔の思案顔で、
「やはり、五月、初夏の涼しい風、あっ、夏の朝風もある。おばちゃんはどう思う」とママさんの方を振り向いた。
「わたしは、スッキリした男性、言葉も姿も…。なにかで読んだのに、そんな男性が側を通りすぎると涼し気な風を感じるとあった」
「おい、川口。そんな奴とわれわれが比べられると、小さくなっていなければならんな」と悔しそうな口ぶり。
「いいえ、お二人さんともそれなりに爽やかです」とママさんはすました顔で、二人を持ち上げる。
「まあまあ。ヒロ子さんもママさんのにも涼やかな風という言葉がでてきました。わたしもそれに賛成です。でもどんな辞書にも〃風〃のことには触れていないんだ」に中田も含め三人は、
「……?」という表情をした。

「国語辞典には、気分がよい、はっきりしている、新しくあざやかなどあり、漢字の辞書には爽の説明に〃あきらか、ほがらか〃などで風に触れた解説はみられなかった。それと驚いたのは爽には〃たがう〃という意味がある。〃爽信〃が例示してあった。約束に背くこととあった」。ふーんという顔をしていたヒロ子さんが、
「それじゃあ、英語はどうなるのかしら?」と。

「ついでだから、それもサッとしらべてみたよ。こちらは、ちょっとてまどったが…」と言いながら川口が話したおおよそは、英語ではリフレッシュにかかわる語であり、それには〃生きかえる〃とか〃回復する〃とあったらしい。説明をきいたヒロ子さんが、
「風という言葉は出てこないのですか?」と、応えた。

「そうなんだ。残念ながら、五月の風も、夏の早朝の風も出ていません」に、フンフンと頷いていた中田が、
「風、それも涼しい風を思い浮かべるのは、日本のような湿気の多い国特有の感覚かもしれない。湿気を吹き飛ばしてくれるからな」と、考え考え口にした。

「そうかもしれないと、わたしも考えていた。風らしいのが登場するのは、島崎藤村の『破壊』という小説で、何と言ったか、金之助か、いや銀之助だったかが文平というのと二人で、寺の一室に宿替えした丑松をたずねるくだり、〃冷々とした空気は窓から入って来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽(サワヤカ)な思(い)を送るのであった〃と、風ー空気の動きを書いている。でも、爽やかとは書くが、これはむしろ冷気。五月の風とはちょっと異質だ。

「本当にそう思われますね」とママさんは、何か思い出しながら口を挟んだ。
「ヒロちゃんが生まれたころにはもう居なかったけど、ヒロちゃんのおばあさん、わたしの母。夜寝る時には、必ず扇子を使っていたのよ。一年中。もちろんバタバタとはやっていなかったけれど」
「冬もだったんですか? 寒いのに」と、顔も知らない祖母を思い描く様子だ。

「そう冬も。〃お母さん寒くない〃ときいたんだけど、〃寒くない。こうやっていると気持ちが落ち着く〃と言ってた」に中田が、
「それを聞くと涼風による爽やかさは、単に体感だけではなく、もちろん視覚だけでもない。心にも感じさせるものがあることがよくわかる。涼風の爽やかさは精神の安定にもおおきい働きをする。気持ちのいい五月の風に吹かれると、身も心もグーッと背伸びがしたくなる。五月の風は爽やかさの代名詞のようなものだ。それをイメージしたヒロ子さんは花丸だ。日本の爽やかさだ。だから、われわれにとっては大正解ということになる。川口センセイ、これでよろしいか?」と、向き直った。

「そう! さすがわれらのヒロ子さんだ。それでは、ここで爽やかになるために、熱くなった胃袋に涼やかで爽やかなやつを送り込むビールといきますか。そして、ヒロ子さんと貴重な証言を頂きましたママに乾杯といこう」と、川口の声が弾んだ。

2020年7月18日 (土)

「入鹿公」! なぜ公がつく?

歴史探訪をしていると、土地土地で歴史上の人物評価にかなりの違いがあるのを見る。

もう20年も前に、畝傍山の北で入鹿神社なる小社に出くわした。「入鹿公」と碑にあった。中学の歴史教室以来、蘇我入鹿に「公」がつくのを見るのは初めて。少なからず興味を持った。そんな記憶から、コロナ騒ぎが一段落した6月中頃の探訪で入鹿神社を一ポイントに選んだ。そうなると、蘇我入鹿にも、多少は私なりの説明が欲しい。

そこで、手元にある藤原仲麻呂が「大師」と署名する『藤氏家伝上巻』や『日本書紀』などにあたった。その中で面白いと思ったのは広辞苑の解説。幸いこの辞書は一版から五版まで手元にある。それらによる蘇我入鹿についての説明を要約すると、

一版(昭和30年)飛鳥時代の朝臣…国政をほしいままにし、山背大兄王を殺したが、皇極4年、中大兄皇子、中臣鎌足に誅せられた。

三版(昭和58年)では、朝臣が権臣とかわるだけで、一版を踏襲。

四版(平成3年)、三版を踏襲

五版(平成10年)はかなりの変化を見る。それまで「国政をほしいままにし」や「権臣」が、批判的記述を去り、単に「飛鳥時代の豪族」と客観的表現へ。更には、皇室に弓弾く「悪人を殺す」を言う「誅」が、敵対同士の勝者側の表現「滅ぼす」と訂正されている。

しかし、問題は二版(昭和44年)だ。蘇我氏についても、馬子、蝦夷、入鹿の本宗家三代の項目も消えている。なぜ?

これは憶測だが、この二版作成段階で、編集者間に蘇我氏悪人説についての意見に相当な異なりが生じ一つにはまとまらなかった。当時、天皇制や皇室について、国民の感情、意見にかなりの「ゆるぎ」があったのじゃないか? そんなゆるぎの中、二版出版の翌年、三島由紀夫が「天皇への強い志」の檄を飛ばし、自決している。両者に多少の繋がりはありはしまいか。「版を重ねる辞書だからこそ、各時代の姿を映していますね」と蘇我入鹿に因む話で場をつないだ。

(川柳ポエトリー「道の花舎」№114  2020夏号 紙上より)

2019年8月 2日 (金)

ラッキョウ騒動

 気兼ねなく付き合っている吉村と、窓から、緑をふかめる高円山が望める、いつもの喫茶店で寛いでいると、
「とんでもない問題をもちこまれた」と、グチリ出した。


 吉村の話では、大和路ウオーク仲間、男女三人ずつ六人が散策の後、気楽にビールがやれる立ち飲み処でワイワイやっていた。すると、どこからそんな話題になったのか、急に〃ラッキョウが好きと、嫌い〃派が三対三に分かれて、ああだ、こうだと言い始めたらしい。しかし、此の勝負は決着がつかず、それではと、それぞれの派が、好きな人と嫌いな人の頭数の多少で決着をつけようと、暖簾をくぐってくる見も知らないお客さんにまで「ラッキョウ、好き、嫌い」と声をかけだした。あまり物おじしない吉村も、『エエッ! ちょっとやりすぎ』と驚いた。ところが、入ってきた女性の三人組など、唐突で不躾な問いかけにもかかわらず、即座に「好き」「嫌い」と応えたという。こんな無茶を繰り返したが、勝負はつかなかった。〃好き〃と〃嫌い〃がほぼ半々の結果になったらしい。


 〃嫌い〃派はそれでは納まらず、
「吉村、お前ラッキョウについて、あの気味の悪い字と、ラッキョウという言葉の語源を調べろ」と、嫌い派の旗頭が言い出した。なんでもその男が言うには、〃薤〃の草冠りはよいとして、歹は『悪いとか、肉を削ぎ落とした骨片』の意味があり、それに加えてニラ〃韭〃という字が合わさっている。この字を思いだすだけでも寒イボが立つと。
「それで、調べたのか?」
「ああ、調べているうちに、興味が沸いてきて図書館通いをした」 「どんなことになった? 聞かせろよ」と注文をだすと、吉村は待ってましたと言わんばかりに、成果を披露し始めた。


 吉村の話を要約すると、まず文字。〃薤〃をラッキョウとよむのは、訓読みではない。手元にある江戸時代の中頃に出た百科事典『和漢三才圖会』の、匂いのある草をいう葷草の欄に〃薤〃があり、〃おふにら〃と訓み仮名がつき、次の〃水晶葱〃に〃らつきよ〃とあった。ただこれだけでは、もう一つ解らないと考えていたが、翌朝目を覚まして、図書館の開架の一角に、文献を網羅する『古事類苑』という百科事典があったのを思い出した。見出し語の解説にはすべてその出典名があり、その説明は資料をそのまま抜き書きしている。その植物部、草の項に〃薤〃を見つけた。 「それで、ラッキョウについて判明した?」
「問題は残ったが、おおよそのところはナ。まず〃薤〃という文字だが、薤という一文字をラッキョウと読むのは、訓読みでも音読みでもないことがわかった」
「訓読みと音読み以外に、読み方がある? はじめて聞くことだ。それはいったい何だ」
「一般に造語や造字、国字というのは知ってるだろう。榊など日本で造った国字。その伝でいくと〃薤〃をラッキョウと読むのは、造読み、国字式に言えば国読みだよ」
「それも初めて聞く言葉だナ」
「薤は中国音で〃カイ・ガイ〃とか〃ケイ・ゲイ〃としか発音しない。ラッキヨウなどと一字で二音読みする漢字はみあたらないよ」
「じゃあ、薤をラッキョウと日本読みしたのは? …どうかんがえても音読みに思えるが…」 
「日本の訓読みは、いずれも平安時代前半に出たもので、漢和辞典『新撰字鏡』というのと、薬用になる植物を書いた『本草和名』があった。それらには、いずれも〃薤〃を奈女彌良(なめみら)とか、於保美良(おほみら)と読んでいる。これが訓読みだろう」 「じゃあ、一体ラッキョウと読んだのはいつ頃?」
「新撰字鏡や本草和名の少し後に出た『倭名類聚抄』簡単に和名抄と呼ぶのには、本草和名を引用、奈女彌良と読んでいる。それから以後、西暦1700年の直前までラツキヨウと書いたものは無い」
「平安時代はミラか! ニラとは言わなかった?」
「平安時代の後半にでた〃類聚名義抄〃にオホミラやナメミラに混じってニラが登場している。ミラとニラは音が通じたようだ」
「そうなると、ラッキョウと、はっきり読んだのは、いつごろからなんだ」
「元禄というから、江戸時代。その十一年(一六九八)に成立したらしい『書言字考節用集』という辞書に〃薤〃にラツキヨウ、ヤブニラ〃と振り仮名をしている」
「しかし、平安時代前半から、江戸時代の元禄では八百年前後の時間差がある。いつ薤をラッキョウと読んだか、ちょっとボヤケタ話になるな」
「実はそうなんだ。『古事類苑』では、そこまでしか解らない。残念ながら」
「なんとかならないのか。なにか資料がありそうだが…」
 この日の話はここで終わった。それから一週間後の午後、例の喫茶店で、仕事疲れをコーヒで癒していると、吉村が何を気にしてるのか、後を振り向き振り向き店の扉を開けた。
 聞いてみると、子犬とじゃれあっていた幼児が尻餅をついて泣き出したらしい。その泣き顔が可愛いと、吉村自身邪気のない表情で話した。
「ところで、ラッキョウの方はどうなった?」
「学生の頃、ちょっと参考にページを開いたことがある日葡辞書、ニッポ辞書と読むが、日本語をポルトガル語に訳した辞書があるのを思い出した」
「どうだった。何か発見があった?」
「裏側からの発見があった。この辞書は江戸幕府が開かれたのと同じ頃、一六〇三~四年にポルトガルの宣教師たちが作っている。これには〃ラッキョウ〃の項目が無かったNiraやNinnicu、ニラ、ニンニクはあるのに…。ただRacqioという見出し語があり、期待したが、これは日本語で書くと〃楽居〃のこと。煩わしいことがなくなり、解放された状態で居ることだった。この辞書はかなりの日本語を収録している。いわゆる卑語まで収めている。それを考え合わせると、Racqioの項目があるくらいだから、当時、一般にラッキョウという言葉が日本でつかわれていたら、当然、収録されたと考えて大過ないだろう。と考えると、一六〇三~四年にはまだラッキョウという言葉は一般には使われていなかったことになる。使われたと判断できる資料は、もう百年近く後、一六九七年頃にでた食べ物の事典『本朝食鑑』の〃羅津岐與(ラツキヨ)〃や『農業全書』の〃らつけう〃まで待たねばならない」
「そうか! ただ、その場合でも百年近い時間差があり、もうひと苦労というところか! 時間がかかりそうだナ。なんだか、海図を持たず大海原へ乗り出すような話になってきた」
「そうだ。言葉のルーツを探すのって、興味はあるからやっているが、簡単ではない。好き嫌いと主張する連中に一杯おごらせたい気持だヨ」
「ところでこんな事、参考にはならないだろうが、図書館を覗いたついでに、『日本国語大辞典』と『大漢和辞典』を調べてみた」 「成る程、解らない時は、単刀直入、相手の臍を狙えか。で、どうだった?」
「国語辞典の方はラッキョウに漢字の辣韮、辣韭、薤があててあった。辣の字にであうのは初めて。で、早速、漢和辞典で〃辣〃の項をしらべてみた。辣韮、辣薤。辣薑があり、皆ラツキヤウと読みがついていた。目を次の見出し語へ移すと、〃辣根〃があり、〃わさび、山葵〃。次の〃辣菜〃には、〃禅家にて漬物をいふ〃とあった。この禅家、僧侶のことだろう?」
「禅宗の坊さんだ。なんだか見えてくるものがあるナ!」
「そうだろう。〃薤〃を〃おおみら〃と訓読みしていたのを、中国に辣薤という言葉があることから、薤一字で、ラッキョウと読んだ。漬物を辣菜などと、ちょっと気取った言いかたをしている坊さんだけに、薤一字にラッキョウと読みをつけた疑いは充分にありそうだろう」
「とすると、江戸時代になって、坊さん仲間でつかっていた読み方が外へ出て、一般に使われだしたことになる。これに似たことがあるよナ。二上山がそうだ。もとは〃ふたがみやま〃だったのを、当時ではインテリだった坊さん達が、〃ニジョウザン〃と音読みした。これなど本居宣長は、けしからんと怒っている」

 話はここで一段落。吉村は冷えたコーヒを一気にのみこんで、一息つき、
「ラッキョウ好き人間が、手をたたいて喜ぶことが、『農業全書』に書かれていたよ」
「……………………?」
「〃…味少し辛く、さのみ臭からず、功能ある物にて、人(体の欠陥)を補ひ温め、又は学問する人つねに是を食すれば神(思いおよばない域)に通じ、魂魄を安んずる物なり〃と。つまり、身体の弱っているところを治し、体を温め、頭をスッキリさせ、思いも及ばない能力を得て、かつ精神が安定すると言うわけだ」
「現在の、その手の薬効宣伝をはるかに越える効能書きだ。本当かよ!」
「よく解らん。まるでラッキョウ信仰のお経のようで、調子良すぎるよな」
 話し終わった吉村は自らが紹介したものに、フーンそんなものかという顔をした。その表情から、彼はラッキョウ大好き人間というわけではない、と思えた。しかし、それは言わなかった。

 

2016年9月14日 (水)

特攻隊長岩本益臣

 東大寺戒壇院の四天王像を知ったのは中学生時代であった。以来数十年、脳裏から消えることはない。特に広目天像は時として眼前に浮かんでくる。憚ることのない視線。その視線を、しかし、まともに受けたことがない。受けられないのだ。幾度かはこの広目天像の正面に立ってはきたが、その都度相手にされず弾き飛ばされるばかりである。もう、そろそろ対峙できてもと思うが、やはり駄目。このままだと、生涯、真正面に立つことはできないのではないかと思えてくる。何時かきっとと思うだけで、確かな見込みはない。

 話はかわるが、毎日買い物に行くスーパーの隣に古本屋が店をだす。自転車で通りかかるくらいだが、時々は立ち寄ってみる。と、言っても店内の値のはるものには手が出なくて、店頭に並ぶ捨て値のものが専ら。

 ゴッホの展覧会場で売られたと思える分厚いカタログ本百円、シルクロードの文物展のこれも立派ではあるがカタログ本、これも百円。掘り出し物と思ったのは岩波古典文学大系の今昔物語一~五の全巻、五冊で五百円だったことだ。ちらっと見て、一冊五百円と思った。それでも安い。ただこの今昔物語は四と五をすでに持っていたので、店の主人に一~三だけ売ってくれないかと頼むと、安くしているのだから、それは出来ないとのこと。まあいいかと、千円の無駄を見込んで買うことにした。ところが、二千五百円を机に置くと、主人が怪訝な顔をする。不満でもあるのかと訝ると、二千円を返しながら、「五冊で五百円」とぶっきらぼうに一言。この五冊は今、私の本棚の一角に並んで、読み物になったり、ちょっとした資料にもなったりしている。

 数日して、例によって、自転車に跨がったまま店頭にあまり丁寧とはいいがたい並べ方をされている古本を見回し、『一億人の昭和史』という、週刊誌より紙質もよく分厚いグラビア本を目にした。自転車を降りて、パラパラやると、「毎日新聞社、昭和五十六年発行」とある。裏表紙には、メガネの「HOYA」の広告があり、モデルにプロ野球のオールドファンには懐かしい「別当薫」が登場していた。手にしたのは、「太平洋戦争 死闘1347日」とある。掲載写真は豊富で、日本にあるものばかりではなく、アメリカの資料なども使用している。京都生まれの京都育ちで、戦災、特に空襲など実際には目撃したことがない者には、「空襲・敗戦・引揚」や「日本占領 ゼロからの出発」などが目新しく三冊を買うことにした。計三百円。

 枕元に置いて、就寝前の小一時間ほどページをくっている。

 「太平洋戦争…」のには、「死を賭けた青春」と副題があり、特攻隊員の姿を飾らず気取らず掲載。その一葉に、特攻機に搭乗する兵士の写真を見つけた。説明に戦死前日の陸軍特攻隊万朶隊飛行隊長・岩本益臣大尉(一九年一一月五日 比島リバ飛行場)」と書く。魅せられたのは、大尉の顔立ち。死出の時の表情には違いないが、静かである。凛とした目鼻立ち、結んだ口元。死を目前にして、全ての思い、両親、家族、そして若い隊員たちへの惜別、惜情、さらにはみずからの命のこと、日本の国のこと、それだけでは言い尽くせない思い、それら全てを懐、心の裏にして、しかも視線は濁ることなく澄明、水平線の彼方、いやそれさえ突き抜けてさらに遠く遠くへ届かせている。その姿に、心騒がぬ静かな「感動」をもらった。

 そして、この目をもってすれば、あの広目天像に対峙出来ると思った。「対峙」はなお言葉が卑しい、なんだかそんな言葉を使うのが恥ずかしい気がした。

 

2016年9月 4日 (日)

復 讐

 珍しく中田の姿がなかった。

 「今日、中田は顔を出さないつもり?」とヒロ子さんが出してくれたおしぼりで、ひといきついて、

 「今日はいつもとぎゃく、熱燗から始めようか」と注文した。そして、

 「ママさんの姿も見えないね」

 「伯母ちゃん、今日はお出かけ」

 「珍しいね。デート!? に出掛けた」と軽く言うと、

 「内緒だけれど、実はそうなの。ちょっとおめかしして、ヒロちゃんお願いねって出掛けた」と、なんだかくすぐったそうに、クツクツと笑う。

 「まぐろが旨そうだな。それと、湯豆腐をたのもうか」と、チビリチビリやり始めたところへ、中田が縄暖簾をくぐってきた。

 「川口、早いんだな。俺は道で本屋に寄っていたんだ。子供のころに読んだ物語の大人向けのを買い直して、ちょっと調べてみたいことがあったんだ」と手に持った文庫本をテーブルにポイッと置いた。アレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯」最終巻の(七)であった。

 「こんな西洋の小説を、中田が読むのを初めて見た。どういった風向き?」

 「ちょっと確かめたいことがあって。買った後、ざっと目を通していたんだ」と言いながら、

 「熱燗か! いいな。俺もたのもう」と、注文。

 ヒロ子さんは、徳利と猪口を出しながら、

 「その小説、中学の時読んだ。凄まじい復讐劇にドキドキしたのを覚えている」

 中田はそれに応えるように、

 「小学校時代、同じクラスにトクチャンという友達が居た。トクチャンは男四人兄弟の末っ子だったが、その一番上の兄さんは外国航路の航海士。早くて半年、長ければ一年以上経たなければ、帰ってこなかった。そして、帰ってくる時はいつも、少年少女向けの世界名作全集五冊が土産だった」

 「そのトクチャンの話は一度聞いたことがあったな」と言うと 「小学校通じての親友だったから、思い出も多く、飲む席で喋ったんだろう」

 「そのトクチャンとモンテクリスト伯とどんな関係があるんだ?」

 「当時、あれは五年生の一学期だった。トクチャンがかなり揃っている全集から、『これ貸したるわ』と手渡してくれたのが『モンテ・クリスト伯』を子供向けに翻訳した『岩窟王』という本だった」

 「岩窟王! 懐かしいなあ。宝島、三銃士、十五少年の漂流記…」

 「わたしも小公子や、乞食と王子なんか読んだ。中学時代だったけど…」

 「それで、今日は何をたしかめた?」

 「覚えているか? モンテ・クリスト伯爵と名乗っていたエドモン・ダンテスが全ての復讐を果たして、帆船で水平線のかなたに遠ざかっていくラスト・シーン。『…水平線のかなた、空と地中海とを分かっている濃紺の線の上、鴎のつばさほどの白帆をみとめた』。トクチャンに借りた『岩窟王』ではこのように書かれていたかどうか、思い出せないが、帆船で水平線のかなたへ消えていくのは同じだったように思う」

 「美しくて悲しいシーンというのは、今も思い出せる」とヒロ子さんは、目線を挙げて遠くをみるような仕草をした。

 「それをたしかめていたのか?」

 「たしかめたかったのは、帆船の遠ざかるシーンではなくて、小学生だった俺は、そのシーンで復讐を終えたモンテ・クリスト伯爵は最後に自殺したと思いこんでいたのだ。それ以来、復讐は復讐する人間の死をもって完結すると考えていた。それで、エドモン・ダンテスである伯爵は本当に自殺したのかをたしかめてみたくなったのだ」

 「自殺したとは書いてなかったわけか!」と言うと、ヒロ子さんが、

 「でも、鴎のつばさのような帆船が濃紺の水平線に消えて行くのは、死を意味しているようにも読めるわね」と反論した。

 「そうか、なるほどな…。話は急にかわるが、この前、テレビで赤穂四十七士の忠臣蔵をみた時、敵討ちを遂げた四十七士に再仕官の話があった。それを全て断って、全員自害する。それをみて、なにかすっきりするものを感じた。中田の言う、復讐の完結がそこにあったからだった? あのすっきり感はそんなところによったとも言えるのか?」

 「でも、それって小学校の五、六年生の時の感想でしょう。それから四、五十年。ずうっと思いつづけていたって、中田さんすごいというか、しぶといというべきか。ちょっと怖いところがある」

 「怖いことはないだろう。だれだって、大人になっていっかどのことを言ったり、考えたりするけれど、その原点は、若いそのころあたりにあるのとちがうか?」

 三人の話はここで次の話題にうつった。

 中田が、灘の酒蔵を見学、そこで試飲した銘酒の旨さを自慢し始める。ヒロ子さんは、新しく暖簾をくぐってきたお客さんの方へ移動してしまった。  

 

2016年8月20日 (土)

ピンク色の茶碗

 夢をみていた。

 田圃の畦で、二本の杭で支えた看板を背にして、チラシを持った男がポツリポツリ通りかかる人に、何だか呼びかけている。

 チラシには、写真展があり、出品作品を募集していると書かれていた。応募費は三千円。このあたりで、夢から覚めた、というよりは夢と現の間を浮遊しているといったほうが正しい。

 『あれが写真にできれば、入賞できる』と咄嗟に考えていた。

 数年前、近くのスーパーの茶碗売り場に珍しく抹茶茶碗が出ていた。木箱はもちろん紙箱もついていない、剥き出し。値段は四百円。

 『煮物容れぐらいにはなるか?』と買って帰った。

 全体が紅色を薄くした、いわゆるピンク色で、正面とおぼしきあたりに、葡萄色の線画が施されている。造りは整っていない円形で両掌に少し余る大振り。

 今、この茶碗は、洋酒や金ピカラベルの安物紹興酒、ヒビのはいったコーヒカップなどが雑然と並ぶ飾りケースに納まっている。しかも、さらしものにするかのように、最上壇、何が入っているのか忘れている紙箱の上に、わざわざ鎮座させられている。

 『いくらなんでも、もうすこしましな茶碗と置き替えるか?』と、思ったこともあった。

 このケースの中には、老陶芸家が自ら選んで贈ってくれた抹茶茶碗が三、四客あるはず。でも、これ見よがしに、それを出すのもわざとらしいか? と不精の言い訳をしながら、ピンク茶碗をそのままにしていた。

 飾りケースは、食卓から、狭い廊下を挟んだ壁際にあり、ちょっと横を向くといやでもこの茶碗が目にはいる。しかも真っ正面に。それを目の端にしながら、おおかたは気にも留めてこなかった。

 ところが一度、

 『お前なあ、少しは茶器らしい色合いを出せよ。手触りは志野風で、まあまあなんだからさあ』と話かけたことがあった。

 それからどのくらい経ったころか、一日中歩き回って、ヤレヤレと、食卓につくと、ピンク茶碗があいも変わらぬ姿で目にはいった。不思議にその時、ホッと一息つくおもいがした。葡萄色の模様がピンク色になじんでいる。

 こんなことがあってから、

 『オイッ! 今帰ったよ』と声をかけたり、

 『ちょっと、今日は淋しそうじゃないか』などと話かけるようになっていた。

 そんな或る日、浮き上がっていた、茶碗のピンクの色合いが少しさめて、咲き出す前の桜の蕾が持つ薄紅色に変わっているように感じられた。葡萄色の線画も、我を主張せず、薄紅色によくマッチ。

 『おっ! 美しくなったじゃないか』と思わず茶碗を掌にとって、手触り、風合を褒めてやった。その時、薄紅色が恥ずかしそうに、ニコッとするのを見た。

 この茶碗がうつむき加減に見せた微笑み、これをカメラで捕らえられたら、写真展で入賞できると、チラシを見ながら考えていた。

 ここまできて、完全に夢から覚めた。部屋には朝の光が充満している。雑然と積まれた本が部屋を占拠。あいもかわらぬむさくるしい光景が遠慮なく視界をうばうばかりであった。 

 

2016年8月11日 (木)

永き夜は…

 夢と現の狭間でなにかモガモガやっていた。

 中の娘の相手から「永き世は…」で始まる俳句とも短歌ともつかない一句が届いた。

 うまいものだと、感心させられた。が、残念なことにその下の句をすっかり忘れてしまった。ただ、「俺には到底詠めない」と思ったことだけは、不思議に頭に残っていた。

 そんな思いが強かったのか、夢と現の狭間で、お返しの句を作っていた。

 「永き夜は

  永き世の外に

  出でもみよ…」

 

 このあたりで夢の領域が随分狭くなっていたように記憶する。そして、続きは、

 「銀河の河原に星ひろい

  サクサクサクと星を踏み…」

 

 ここで完全に夢から覚めた。水を一杯飲んで、しつこく続きを考えた。

 「星の流れを美ともせず

  思いはるけく辿りゆく

  そは いずれの国へか

  いずれの女人へか」

 

  ここで、タバコをやりたくて中断。

  性懲りもなく、また続ける。しかし、段々つまらないものになる。

 「遠きに音あり

  そが 何か確かめもせず

  銀の河原を歩みゆく」

 

もう、どんなものになるか、斟酌せず乱暴に

 「永き夜に 

  永き世に帰るあてなく

  一人ゆく

  河原の輝き 美ともせず」

 

 中の娘の相手は、この返事をどんなように読んでくれるか? 『ナンダこれはツマラン』で終わるとは思っているが…。

  

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