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2016年9月 4日 (日)

復 讐

 珍しく中田の姿がなかった。

 「今日、中田は顔を出さないつもり?」とヒロ子さんが出してくれたおしぼりで、ひといきついて、

 「今日はいつもとぎゃく、熱燗から始めようか」と注文した。そして、

 「ママさんの姿も見えないね」

 「伯母ちゃん、今日はお出かけ」

 「珍しいね。デート!? に出掛けた」と軽く言うと、

 「内緒だけれど、実はそうなの。ちょっとおめかしして、ヒロちゃんお願いねって出掛けた」と、なんだかくすぐったそうに、クツクツと笑う。

 「まぐろが旨そうだな。それと、湯豆腐をたのもうか」と、チビリチビリやり始めたところへ、中田が縄暖簾をくぐってきた。

 「川口、早いんだな。俺は道で本屋に寄っていたんだ。子供のころに読んだ物語の大人向けのを買い直して、ちょっと調べてみたいことがあったんだ」と手に持った文庫本をテーブルにポイッと置いた。アレクサンドル・デュマの『モンテクリスト伯」最終巻の(七)であった。

 「こんな西洋の小説を、中田が読むのを初めて見た。どういった風向き?」

 「ちょっと確かめたいことがあって。買った後、ざっと目を通していたんだ」と言いながら、

 「熱燗か! いいな。俺もたのもう」と、注文。

 ヒロ子さんは、徳利と猪口を出しながら、

 「その小説、中学の時読んだ。凄まじい復讐劇にドキドキしたのを覚えている」

 中田はそれに応えるように、

 「小学校時代、同じクラスにトクチャンという友達が居た。トクチャンは男四人兄弟の末っ子だったが、その一番上の兄さんは外国航路の航海士。早くて半年、長ければ一年以上経たなければ、帰ってこなかった。そして、帰ってくる時はいつも、少年少女向けの世界名作全集五冊が土産だった」

 「そのトクチャンの話は一度聞いたことがあったな」と言うと 「小学校通じての親友だったから、思い出も多く、飲む席で喋ったんだろう」

 「そのトクチャンとモンテクリスト伯とどんな関係があるんだ?」

 「当時、あれは五年生の一学期だった。トクチャンがかなり揃っている全集から、『これ貸したるわ』と手渡してくれたのが『モンテ・クリスト伯』を子供向けに翻訳した『岩窟王』という本だった」

 「岩窟王! 懐かしいなあ。宝島、三銃士、十五少年の漂流記…」

 「わたしも小公子や、乞食と王子なんか読んだ。中学時代だったけど…」

 「それで、今日は何をたしかめた?」

 「覚えているか? モンテ・クリスト伯爵と名乗っていたエドモン・ダンテスが全ての復讐を果たして、帆船で水平線のかなたに遠ざかっていくラスト・シーン。『…水平線のかなた、空と地中海とを分かっている濃紺の線の上、鴎のつばさほどの白帆をみとめた』。トクチャンに借りた『岩窟王』ではこのように書かれていたかどうか、思い出せないが、帆船で水平線のかなたへ消えていくのは同じだったように思う」

 「美しくて悲しいシーンというのは、今も思い出せる」とヒロ子さんは、目線を挙げて遠くをみるような仕草をした。

 「それをたしかめていたのか?」

 「たしかめたかったのは、帆船の遠ざかるシーンではなくて、小学生だった俺は、そのシーンで復讐を終えたモンテ・クリスト伯爵は最後に自殺したと思いこんでいたのだ。それ以来、復讐は復讐する人間の死をもって完結すると考えていた。それで、エドモン・ダンテスである伯爵は本当に自殺したのかをたしかめてみたくなったのだ」

 「自殺したとは書いてなかったわけか!」と言うと、ヒロ子さんが、

 「でも、鴎のつばさのような帆船が濃紺の水平線に消えて行くのは、死を意味しているようにも読めるわね」と反論した。

 「そうか、なるほどな…。話は急にかわるが、この前、テレビで赤穂四十七士の忠臣蔵をみた時、敵討ちを遂げた四十七士に再仕官の話があった。それを全て断って、全員自害する。それをみて、なにかすっきりするものを感じた。中田の言う、復讐の完結がそこにあったからだった? あのすっきり感はそんなところによったとも言えるのか?」

 「でも、それって小学校の五、六年生の時の感想でしょう。それから四、五十年。ずうっと思いつづけていたって、中田さんすごいというか、しぶといというべきか。ちょっと怖いところがある」

 「怖いことはないだろう。だれだって、大人になっていっかどのことを言ったり、考えたりするけれど、その原点は、若いそのころあたりにあるのとちがうか?」

 三人の話はここで次の話題にうつった。

 中田が、灘の酒蔵を見学、そこで試飲した銘酒の旨さを自慢し始める。ヒロ子さんは、新しく暖簾をくぐってきたお客さんの方へ移動してしまった。  

 

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