「入鹿公」! なぜ公がつく?
歴史探訪をしていると、土地土地で歴史上の人物評価にかなりの違いがあるのを見る。
もう20年も前に、畝傍山の北で入鹿神社なる小社に出くわした。「入鹿公」と碑にあった。中学の歴史教室以来、蘇我入鹿に「公」がつくのを見るのは初めて。少なからず興味を持った。そんな記憶から、コロナ騒ぎが一段落した6月中頃の探訪で入鹿神社を一ポイントに選んだ。そうなると、蘇我入鹿にも、多少は私なりの説明が欲しい。
そこで、手元にある藤原仲麻呂が「大師」と署名する『藤氏家伝上巻』や『日本書紀』などにあたった。その中で面白いと思ったのは広辞苑の解説。幸いこの辞書は一版から五版まで手元にある。それらによる蘇我入鹿についての説明を要約すると、
一版(昭和30年)飛鳥時代の朝臣…国政をほしいままにし、山背大兄王を殺したが、皇極4年、中大兄皇子、中臣鎌足に誅せられた。
三版(昭和58年)では、朝臣が権臣とかわるだけで、一版を踏襲。
四版(平成3年)、三版を踏襲
五版(平成10年)はかなりの変化を見る。それまで「国政をほしいままにし」や「権臣」が、批判的記述を去り、単に「飛鳥時代の豪族」と客観的表現へ。更には、皇室に弓弾く「悪人を殺す」を言う「誅」が、敵対同士の勝者側の表現「滅ぼす」と訂正されている。
しかし、問題は二版(昭和44年)だ。蘇我氏についても、馬子、蝦夷、入鹿の本宗家三代の項目も消えている。なぜ?
これは憶測だが、この二版作成段階で、編集者間に蘇我氏悪人説についての意見に相当な異なりが生じ一つにはまとまらなかった。当時、天皇制や皇室について、国民の感情、意見にかなりの「ゆるぎ」があったのじゃないか? そんなゆるぎの中、二版出版の翌年、三島由紀夫が「天皇への強い志」の檄を飛ばし、自決している。両者に多少の繋がりはありはしまいか。「版を重ねる辞書だからこそ、各時代の姿を映していますね」と蘇我入鹿に因む話で場をつないだ。
(川柳ポエトリー「道の花舎」№114 2020夏号 紙上より)
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