爽やかってどんなこと?
お客さんが立て込んでいる間はおとなしく熱燗を口へ運んでいた川口が、お客さんの姿がまばらになりだすと、ヒロ子さんに話しかけた。
「ヒロ子さん、爽やかという言葉を聞いてどんなことをイメージする?」と。猪口を口へはこんでいた中田はなんのことかという顔をして、
「川口センセイ、今日はまた、異な質問を始めましたな」と、口元をニヤニヤさせる。比べてヒロ子さんは真顔の思案顔で、
「やはり、五月、初夏の涼しい風、あっ、夏の朝風もある。おばちゃんはどう思う」とママさんの方を振り向いた。
「わたしは、スッキリした男性、言葉も姿も…。なにかで読んだのに、そんな男性が側を通りすぎると涼し気な風を感じるとあった」
「おい、川口。そんな奴とわれわれが比べられると、小さくなっていなければならんな」と悔しそうな口ぶり。
「いいえ、お二人さんともそれなりに爽やかです」とママさんはすました顔で、二人を持ち上げる。
「まあまあ。ヒロ子さんもママさんのにも涼やかな風という言葉がでてきました。わたしもそれに賛成です。でもどんな辞書にも〃風〃のことには触れていないんだ」に中田も含め三人は、
「……?」という表情をした。
「国語辞典には、気分がよい、はっきりしている、新しくあざやかなどあり、漢字の辞書には爽の説明に〃あきらか、ほがらか〃などで風に触れた解説はみられなかった。それと驚いたのは爽には〃たがう〃という意味がある。〃爽信〃が例示してあった。約束に背くこととあった」。ふーんという顔をしていたヒロ子さんが、
「それじゃあ、英語はどうなるのかしら?」と。
「ついでだから、それもサッとしらべてみたよ。こちらは、ちょっとてまどったが…」と言いながら川口が話したおおよそは、英語ではリフレッシュにかかわる語であり、それには〃生きかえる〃とか〃回復する〃とあったらしい。説明をきいたヒロ子さんが、
「風という言葉は出てこないのですか?」と、応えた。
「そうなんだ。残念ながら、五月の風も、夏の早朝の風も出ていません」に、フンフンと頷いていた中田が、
「風、それも涼しい風を思い浮かべるのは、日本のような湿気の多い国特有の感覚かもしれない。湿気を吹き飛ばしてくれるからな」と、考え考え口にした。
「そうかもしれないと、わたしも考えていた。風らしいのが登場するのは、島崎藤村の『破壊』という小説で、何と言ったか、金之助か、いや銀之助だったかが文平というのと二人で、寺の一室に宿替えした丑松をたずねるくだり、〃冷々とした空気は窓から入って来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽(サワヤカ)な思(い)を送るのであった〃と、風ー空気の動きを書いている。でも、爽やかとは書くが、これはむしろ冷気。五月の風とはちょっと異質だ。
「本当にそう思われますね」とママさんは、何か思い出しながら口を挟んだ。
「ヒロちゃんが生まれたころにはもう居なかったけど、ヒロちゃんのおばあさん、わたしの母。夜寝る時には、必ず扇子を使っていたのよ。一年中。もちろんバタバタとはやっていなかったけれど」
「冬もだったんですか? 寒いのに」と、顔も知らない祖母を思い描く様子だ。
「そう冬も。〃お母さん寒くない〃ときいたんだけど、〃寒くない。こうやっていると気持ちが落ち着く〃と言ってた」に中田が、
「それを聞くと涼風による爽やかさは、単に体感だけではなく、もちろん視覚だけでもない。心にも感じさせるものがあることがよくわかる。涼風の爽やかさは精神の安定にもおおきい働きをする。気持ちのいい五月の風に吹かれると、身も心もグーッと背伸びがしたくなる。五月の風は爽やかさの代名詞のようなものだ。それをイメージしたヒロ子さんは花丸だ。日本の爽やかさだ。だから、われわれにとっては大正解ということになる。川口センセイ、これでよろしいか?」と、向き直った。
「そう! さすがわれらのヒロ子さんだ。それでは、ここで爽やかになるために、熱くなった胃袋に涼やかで爽やかなやつを送り込むビールといきますか。そして、ヒロ子さんと貴重な証言を頂きましたママに乾杯といこう」と、川口の声が弾んだ。
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