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2022年6月

2022年6月21日 (火)

川口の万葉語り

開店そうそうの客が三人減り、一人去り、二人が出て行きママさんもヒロ子さんもひと息いれているところへ、川口が暖簾を分けて、いつもの呑気を絵に描いたような顔ではいって来た。
「今晩は!」
「いらっしゃい川口さん。この前の台風大丈夫でしたか?」とヒロ子さん。
「大丈夫だったけど、京都あたりは屋根瓦が飛んだりしたと、ニュースでやっていた。もちろんヒロ子さんもママさんところも大丈夫だったのでしょうね」に、ママさんが、
「少し風は強かったが、台風というより、天気が変わる時の風のようで迫力なかった」と涼しい顔。
「風が吹いているさなかに、中田に電話をいれると、〃ただ今、風見酒。木々がまるで喜んでいるように揺れはしゃいでる〃と京都の人が聞いたら怒りそうなことを言ってたよ」
「雪見酒は聞いたことあるけど、風見酒なんて聞き始め」とヒロ子さんが、笑い声を挙げているところへ、中田が、
「今晩は」と顔を出した。


「中田さん、この前の台風の時、風見酒だったんですってね」とママさんが挨拶がわりに声をかけた。
「マンションの三階を越える落葉樹と、少し低い桜並木が、あんなに喜ぶ姿、初めてだった。川口センセイはどうだった?」と中田が、川口へ話題を振ると、
「ちょっと調べ物をしていた。万葉集と、奈良時代を記録した続日本紀を突き合わせていた」
「それは高尚ナ。私メの風見酒とは雲泥の差。その成果を御披露願いたい。ママさんどう?」
「賛成。ヒロちゃんは?」
「勿論賛成!」
だろうという目で中田が川口に、始めろよと合図。それではといつもの川口の万葉語りが始まった。


「巻十五の巻頭の百四十五首は、第十五次遣新羅使がその行路で詠んだ歌が、物語り風に構成されているんだ。この遣新羅使は、天平八年(七三六)二月に阿倍継麻呂が大使に任命され、四月に拝朝しているから、その後間もなく出航していると考えられる」
「随分多くの人が船に乗り込んでたんでしょうね」とヒロ子さん。 「遣唐使のばあい漕ぎ手である水手も含め一船に百二十~六十人が乗っていた。それに近かったと思える」
「小さい船に鮨詰め!」とママさんが驚く。


「この船が難波津から瀬戸内海を経て、那大津(博多)そして、壱岐、津(対)島と辿っていくが、航路の島々の名前などが克明に書き出されているよ」
「千二百年以上前だから、今の地名とはだいぶちがったでしょうね」とママさん。


「それがそうでもないんだ。違うのもあるが、今と同じ地名もおおい。まず武庫の海が登場、武庫は今も武庫川に名前がのこる。明石、長門。家島は牡蛎で有名な坂越の沖合に今も家島諸島が浮かぶ。倭奴国王という金印がでた福岡の志賀島をいう志賀、松浦、津島など同じ地名で登場している」
「その遣新羅使は、うまく役目を果たし、無事帰国できたんでしょうね?」とママさんは、飲み助二人らからちょっと離れたところで、心配顔をした。


 話はここで一段落。喋りすぎた喉を潤すために、川口はビールのお代わりを注文。旨そうにビールを飲み干す川口を横目に中田が、『それからどうなった』と、目で合図する。

 
「それがうまく行かなかった。新羅へせっかく海を越えて使いしたのに、新羅は使節団を追い返すような仕打ちだったと帰国した遣使が、報告している」
「苦労して新羅まで行ったのに、相手にされなかったなんて…」とママさん。


「無礼と怒る者、その訳をただせとか兵隊をだして新羅を征伐なんて声もでたようだ」に、中田が、
「そんなに日本と新羅の間には溝があったのか?」


「新羅は六六〇年代に唐の力をかりて、朝鮮半島を統一していた。しかも、その後新羅を管理監視していた唐軍、当時の唐帝国は回りの国々を鼠とすれば、巨象のような存在だった。その唐の軍隊を新羅は独力で追い返したんだ。次はその兵力で日本を攻めてくるという、危機感が充満していた。それから約六十年後の遣新羅使であったが、新羅は対唐一辺倒で日本など相手にはしなかったようだ。当時の新羅の王は聖徳王と書きソンドクワン、唐はあの名高い玄宗皇帝だった」
「今日の万葉語りは歴史編というところ?」と中田が合いの手をいれた。
「本当、なんだか難しい」とママさん。


「いいえ、歴史語りではありません。次に紹介する歌はそれ以後の古今集や新古今集にはみられない、万葉集独自の世界です」に、ヒロ子さんが、
「わたしは、川口さんのお話しに最初からずっと期待しています。川口さん喉を潤して、続けてください」と、応援。このヒロ子さんの励ましに、ひと息ついた川口は、
「この遣新羅使の旅は、伝染病に苦しめられた。〃玉敷ける清きなぎさを 潮満てば 飽かず 我行く 帰るさに見む〃訳すると、こんなに清らかな渚であるが、潮が満ちてきて出帆しなければならない、いつまでも見ていたい。きっと帰りには目を楽しまそうとなる。ところがこの歌を詠んだ大使の阿倍継麻呂は帰路、津島で病没。副使の大伴三中は帰国はしたものの、病気で一カ月あまり平城の都へは入れなかった」
「新羅で病気をもらって来たんでしょうか」
「ところが、帰路の病没や病気ばかりではなかった。往路でも病没した人間がいた。きょう、登場させる雪宅麻呂、ユキノヤカマロがそれなんだ」


中田もママさんも、ヒロ子さんも川口の次の言葉をまった。
「船が山口と九州に挟まれた、下関手前の周防灘で逆風にあい漂流した。この時〃大君の命畏み大船の行きのまにまに 宿りするかも〃、大君の仰せをかしこみ、大船が漂い行くままに、船の中で浮き寝をして夜をすごす、と詠んだ雪宅麻呂であったが、その後に〃壱岐の島に至りて、雪宅麻呂(満)、たちまちに鬼病に遇いて死去」と書く。船上の遺体は航路近くの島などに埋葬したらしく、壱岐の島の端っこの石田野という所に埋葬している。これに対し同船した仲間の一人が〃石田野に宿りする君 家人の いずらと我れを問はば いかに言はむ〃と詠んでいる。帰朝した時、宅麻呂の家人、母親や妻が、宅麻呂はどこに居ます? 見かけませんでしたか、とわたしに問いかけたら、どうこたえよう。こたえられない…というのを見つけた」。
「………」。


川口の話がおわった後、しばらくはだれからも言葉がなかった。 
「なるほどなあ」と中田が口をきったが、だれからもそれに続く言葉はでなかった。そんな雰囲気を破ろうと川口が話し始めた。
「死んだり病気したりしても、正史に名前がのこる上級者はまだいい、いつ生まれいつ死んだかもわからない庶民や下級役人など、万葉集だからこそ書き止めている。ところが万葉集以後、歌集が貴族化、高尚化すると、もはや庶民の陰すらとどめない。万葉集が他を絶するところだ。……ますます万葉集にはまっていきそう」に、やっときもちを持ち直したヒロ子さんが、
「川口さん、もっと万葉集にはまって、わたしたちに歌の数々を話してください」と改めて注文。ママさんはと見ていると、無言のまま奥へ姿を隠した。と、中田が、
「きょうは酒をしみじみと味わおう」と、珍しく冷や酒、純米濃潤を注文した。

 

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