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2023年6月

2023年6月16日 (金)

狂女の目の淋し色に

K朗は二、三ケ月毎に随筆まがいのものを書き送ってきていた。それがこのところ途絶えているナ、と思っていた四月半ば、少し分厚めの封筒が届いた。

 K朗は自由律の俳句とも短歌ともつかないもので時候の挨拶文を済ませると、性急に近況報告をはじめだした。これはいつものことで驚きはしなかったが、つぎの一節には〃ナニ?〃と虚を突かれた。〃先月の九日に軽い脳梗塞を発症、左半身、腕と脚が重く、思うように動かせない。診察の結果、即入院〃と書かれている。先月九日と言えばもう四十日前。仲間うちでも一番元気な奴だけに晴天の霹靂であった。

 最初収容された病院で脳梗塞の治療はおわり、その後、リハビリ専門の病院へ移動。日に約一時間ずつ三回、機能回復訓練室で療養士の指導を受けているとある。内容はともかく、手紙文は、コロナ感染予防で外部とは隔離状態にある病室からのものとは思えぬほど、明るく、左半身の自由が奪われたという困惑も感じさせなかった。しかも、つぎのような内容に、彼ならではのものと思わせられた。

 リハビリ専門病院では入院当日とその翌日は特別な個室で、コロナ感染の検査、で入院当日はその部屋で就寝となった。ところが、ベッドメイクをしてくれた看護女師が「夜中にドンドン音がしますが心配いりません。隣の部屋の入院患者が夜になると、壁を手で叩き廻るのですから」と言い置いて部屋を出て行った。

 たしかに、真夜中の二時間ほど、壁を叩く音がした。少し遠い音が次第に近づき、また遠のく、が何度か繰り返された。一様な音なら寝付けたかもしれないが、音に強弱があり、遠のいたり近づいたりすると、聞き耳を誘われついに音のある間は寝付けなかったらしい。

 幸いコロナは陰性で、二人部屋へ移り、落ち着けたと同時に、二日目から、早速機能回復の訓練がはじまった。と、大声で喚きちらす、六十前後の女性患者が車椅子を看護女師に押されながら訓練室へ入ってきた。彼女は興奮状態にあるのだろう、目は怒り、焦点が定まっていない。いわゆる怖い目で喚きちらしていた。

〃この病院では精神的リハビリもするのか〃と思った、とK朗。が、そうではなかったらしい。女性は明らかに身体的機能をかなり麻痺させていた。彼女が訓練後自室へ帰って行くのをなんとはなしに目で追っていると、昨晩ドンドン壁を叩いた一人部屋の患者であった。その時は気付かなかったが、翌日、彼女の両手には鍋掴み様のデッカイ手袋が穿かされているの見た、と、手紙の文字が驚いている。
 その後二、三日は、廊下や訓練室で大声を耳にするだけでやり過ごしていた。

 そして一週間後、彼女は訓練室の片隅に車椅子を寄せて、訓練の順番待ちをしていた。この時、彼女は物音一つたてず、むしろ淋しいほどに静かだった。〃いるナ〃と目の片隅で捉えながらK朗は通り過ぎようとしたと書く。と、彼女が分からないほどに、K朗に目だけで会釈するのが感じられた。咄嗟に〃なぜ?〃とK朗は訝ったらしい。だが、その時はそれだけだった。

 こんなことが幾度か重なった。そのうちにK朗は、目だけの会釈から、軽く頭を下げる会釈を彼女に返すようになっていた。しかも彼女が会釈するのは〃わたしだけ〃であることにも気付いている。ただ、彼女の気持が興奮状態にある時は会釈など、とんでもないことではあったらしいが…。

そんなある日、K朗が彼女の間近を通り過ぎることがあり、会釈する彼女の目をはっきり捉えることがあったらしい。彼女は小顔で目は、大声で喚きちらす目ではなく、むしろ幼い子供の目のようにキョトンとしたものであった。そんな幼子のような目に、静かで淋し気な色合いが一瞬よぎるのを見て、〃オヤ!〃と感じたとK朗。〃同時に、なぜか、単なる会釈を越えて、通じあうものを感じたらしい。それがなにか、明確にはわからなかったが、ただ〃彼と我〃と分立しあっていた気持がゆるみあうのを覚えた、と手紙文が暖かみを含む。

 そんなことがあった翌日、K朗は病室からビル群に遮られた角の尖った星空を眺めていて、フッと芥川龍之介の『點鬼簿』を読んでみたくなったらしい。

 『點鬼簿』は、龍之介が自殺した昭和二年七月の十カ月ほど前に出した小文。内容は題名通り、鬼籍に入った人を語るもので、実母、実父、そして龍之介が産まれる前に亡くなっていた長姉の初ちゃんの三人。このうちK朗が読みたいと思ったのは〃実母〃のくだりであったと言う。
 手紙は、『點鬼簿』の冒頭の一節「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」が引用してあり、そんな龍之介の母への心情が、母の最期、「僕の母は…殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬまえには正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落とした。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた」と書く、龍之介の母への心情の変容傾斜を、K朗は丁寧になぞっていた。

 龍之介の母親が死んだのは、彼が十一歳の秋で、それ以前に、養母に連れられて、母親の実家を訪ねている。その時の母親を「髪を櫛巻きにし、…一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」とし、その様子を中国古典にみる〃土口氣泥臭味〃という言葉で表現する。この時少年龍之介は母親に長煙管で頭を打たれている。K朗はこのシーンの印象が強く『點鬼簿』を覚えていたという。ただ、この打撲が少年龍之介にはどんなものであったか、痛かっただけか、痛みをともないながらも、母親の確かなメッセージとうけたかは分からない。が、「母は如何にももの静かな狂人だつた」と親しみを感じさす描写で龍之介はこの場面を終えているとK朗は結んでいる。

 そして、この短文は母親の最期の場面に向かう。 「危篤の電報でも來た為であらう。…僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず聲を立てて泣いた」と書く一文では「僕」が重複して使われている。ただこれらの「僕」は、『點鬼簿』冒頭の「僕の母は狂人だった」の「僕」に見る母親との距離感を感じさせなくなっていると、K朗。
 そんな親近感が、臨終の母親の描写に凝縮しているという。

「死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落とした。が、やはりふだんのやうに何とも口はきかなかつた」と。

 文章を辿ると、『點鬼簿』はそんな龍之介少年の心情の変容を書く、だけだったか? それだけではない気がする。狂人の母を龍之介自らの内に納め込もうとすると同時に、自らが狂気への傾斜を滑り落ちる不安、その中で、明確な意識の世界に踏みとどまろうとする渾身の気概があったのではないか。そんなことも感じるとK朗は書きたしている。

 同じ機能回復訓練室で、いらだつ感情を剥き出しにする女性の目に瞬時見えた淋し気な色合いに誘われ、K朗は『點鬼簿』が読んでみたくなった。と書いて手紙は終わっていた。が、K朗にしては珍しく追伸が付いている。

〃以上、長々と書いたが、一つ引っ掛かるところがある〃として次ぎのような一文を付け加える。

龍之介の母親が臨終の床で、「正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落した」とあるが、この時、母親は「八畳の座敷に横たはつてゐた」のだから、「ぽろぽろ涙を落した」は不自然な表現。普通は〃涙を流す〃であろう。

 と、すると、この龍之介が書く文章は〃正氣に返つたと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしに(涙を流した。僕等も)ぽろぽろ涙を落した〃とよまねばならないのかもしれない。あるいは、そんな全体の光景を含みこんだ表現になっているんだろうか?

 ただ、こんな書き方は俳句などでは有り得るかも知れないが、散文では見たことがなく、素直に読んでおけばよいのかもしれない。でも、引っ掛かる言葉使いではある、と文章を伸ばして終わっていた。

                               名なし川 春のくもりを 映しゆく

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