死別
梶井基次郎の『城のある町にて・ある午後』のつぎのような文章にでくわした。
〃可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たいといふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七を出ない頃の家を出て此の地の姉の家へやつて來た。ぼんやりしてゐて、それが他所の子の泣聲だと氣がつくまで、死んだ妹の聲の氣持がしてゐた〃
この一文が、随分昔に母親がわたしにもらした話をおもいださせた。
わたしには四歳上に、フクという姉がいた。いた、といったが、当時一歳の誕生過ぎでフク姉さんの記憶は皆無である。
この姉が近所のおばさんに連れられて、出店がならぶ縁日の神社へ。そこで良からぬ物を買い食いしたらしい。その晩、姉は「おなかが痛い]と言いいながら寝たらしい。ところが、翌朝、母親は異常に気づき部屋へ飛び込んだが、その目の前で引付けを起こした。めったに父母二人で出掛けることがないのに、
「珍しい、二人の足早な姿だった」と、これも後年近所のおばあさんから聞いた。
フク姉さんを抱いた二人は近所の病院へ飛び込んだが、赤痢だか疫痢だかですでに手遅れだった。
フク姉さんを死なせたあと半年ほどは、家の前を女の子が泣いて通ると母は
「〃フクが帰ってきた〃と何回外へとびだしたか」と言っていた。そして、
「〃一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため…〃とフクの通夜で唱えられる地蔵和讚、親にとってはたまらんかった」と、つらい目をしばたたかせていた。
父親が悲しみを見せたのをしらない。しかし、引率したおばさんには深い恨みが続いていたと思えた。わたしが物心つくころにも、父親はそのおばさんへは険のある言葉遣いだった。
わたしには、フク姉さんの死を悲しくおもったことは無かった。それより、これも母から聞いたことだが、フク姉さんはわたしのことを誰彼なしに、
「ウチノ坊ハ、カワイイカワイイネデ」とまだまわりきらぬ口ぶりで言っていたという。この姉の言葉を、わたしは長い間口の中で反芻していた。すると、〃ウチノ坊ハカワイイカワイイ〃と言われた幼い自分にタイムスリップするのであった。
こんな記憶がさらに、飛躍して義弟の死の思いでにつながった。 二十五、六歳になっていたわたしはすでに結婚していた。そんなある夕方、近所の縄暖簾から帰ってみると、義弟が服毒したと電話がはいった。まだ二十二歳。妻はすでに救急車で搬送された病院に駆けつけていた。ほろ酔いもけしとんだわたしが、病室へ飛び込むと、ベッドで意識をうしなっている義弟は胃洗浄のため口や鼻から管を突っ込まれている。
「どうした?」と叫ぶわたしに妻は、
「睡眠薬を一瓶飲んだらしい」とおろおろ声。
連絡で駆けつけた友人やわたしたちをよそに、義弟は無表情で眠りつづけるだけであった。
「今夜がヤマです」という医師の言葉に細い希望をたくして見守るなかで、義弟はついに目覚めることなく、その夜半に息をひきとってしまった。
お通夜から告別式は、集まった人全員、容易に言葉が出ないほどに、ショックと痛ましさに打ちひしがれていた。
「なんで死んだんやろか」とだれかがボソッと漏らす。これに誰も返事はしない。おそらくお通夜にあつまった全員が同じ思いだったのであろう。
妻はお通夜が始まる前から泣き通しだった。なんとも可哀想で、泣くのをただ見守るしかできなかった。どんな言葉もその場にふさわしくなかったうえ、誰も言葉がないのだった。
翌日、出棺となり、義弟とは最後の別れという場面で、妻はまるで魂をうしなったように、目をあらぬ方にやって、無表情、呆けていた。悲しみも涙も尽きてしまったように思えた。
葬式の後、二晩を妻の実家で過ごした。と、夜遅く家の前を行く足音が耳に入ると、わたしは〃義弟が帰ってきた〃と思った。しかし、仏間に並ぶ白い布袋に納まった骨壷を目にして、
「そうか、あれは義弟ではない」と自分に言い聞かすのだった。
それから、一週間ほどしてわたしは夢をみた。
夢でわたしは二階の部屋で寝ている。その階段の上がり框で、義弟がしきりに、『うどんを食いに行こう』と誘う。『今、いきたくない』とわたしが応えている。義弟の誘いは執拗だった。その誘いをわたしは、執拗に断り続けて目が覚めた。しばらく、ボヤーッとしていたが、しだいに意識がかえってくる中で夢を思い出していた。『誘いに乗らなかったな…!』と思いだしながら、なぜか『そんなもんか!』と、ひとり納得しながら明るくなった窓に目やっていたのだった。
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