随筆

2021年7月14日 (水)

死別

 梶井基次郎の『城のある町にて・ある午後』のつぎのような文章にでくわした。
〃可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たいといふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七を出ない頃の家を出て此の地の姉の家へやつて來た。ぼんやりしてゐて、それが他所の子の泣聲だと氣がつくまで、死んだ妹の聲の氣持がしてゐた〃
 この一文が、随分昔に母親がわたしにもらした話をおもいださせた。
 わたしには四歳上に、フクという姉がいた。いた、といったが、当時一歳の誕生過ぎでフク姉さんの記憶は皆無である。
 この姉が近所のおばさんに連れられて、出店がならぶ縁日の神社へ。そこで良からぬ物を買い食いしたらしい。その晩、姉は「おなかが痛い]と言いいながら寝たらしい。ところが、翌朝、母親は異常に気づき部屋へ飛び込んだが、その目の前で引付けを起こした。めったに父母二人で出掛けることがないのに、
「珍しい、二人の足早な姿だった」と、これも後年近所のおばあさんから聞いた。
 フク姉さんを抱いた二人は近所の病院へ飛び込んだが、赤痢だか疫痢だかですでに手遅れだった。
 フク姉さんを死なせたあと半年ほどは、家の前を女の子が泣いて通ると母は
「〃フクが帰ってきた〃と何回外へとびだしたか」と言っていた。そして、
「〃一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため…〃とフクの通夜で唱えられる地蔵和讚、親にとってはたまらんかった」と、つらい目をしばたたかせていた。
 父親が悲しみを見せたのをしらない。しかし、引率したおばさんには深い恨みが続いていたと思えた。わたしが物心つくころにも、父親はそのおばさんへは険のある言葉遣いだった。
わたしには、フク姉さんの死を悲しくおもったことは無かった。それより、これも母から聞いたことだが、フク姉さんはわたしのことを誰彼なしに、
「ウチノ坊ハ、カワイイカワイイネデ」とまだまわりきらぬ口ぶりで言っていたという。この姉の言葉を、わたしは長い間口の中で反芻していた。すると、〃ウチノ坊ハカワイイカワイイ〃と言われた幼い自分にタイムスリップするのであった。
 こんな記憶がさらに、飛躍して義弟の死の思いでにつながった。 二十五、六歳になっていたわたしはすでに結婚していた。そんなある夕方、近所の縄暖簾から帰ってみると、義弟が服毒したと電話がはいった。まだ二十二歳。妻はすでに救急車で搬送された病院に駆けつけていた。ほろ酔いもけしとんだわたしが、病室へ飛び込むと、ベッドで意識をうしなっている義弟は胃洗浄のため口や鼻から管を突っ込まれている。
「どうした?」と叫ぶわたしに妻は、
「睡眠薬を一瓶飲んだらしい」とおろおろ声。
 連絡で駆けつけた友人やわたしたちをよそに、義弟は無表情で眠りつづけるだけであった。
「今夜がヤマです」という医師の言葉に細い希望をたくして見守るなかで、義弟はついに目覚めることなく、その夜半に息をひきとってしまった。
 お通夜から告別式は、集まった人全員、容易に言葉が出ないほどに、ショックと痛ましさに打ちひしがれていた。
「なんで死んだんやろか」とだれかがボソッと漏らす。これに誰も返事はしない。おそらくお通夜にあつまった全員が同じ思いだったのであろう。
 妻はお通夜が始まる前から泣き通しだった。なんとも可哀想で、泣くのをただ見守るしかできなかった。どんな言葉もその場にふさわしくなかったうえ、誰も言葉がないのだった。
 翌日、出棺となり、義弟とは最後の別れという場面で、妻はまるで魂をうしなったように、目をあらぬ方にやって、無表情、呆けていた。悲しみも涙も尽きてしまったように思えた。
 葬式の後、二晩を妻の実家で過ごした。と、夜遅く家の前を行く足音が耳に入ると、わたしは〃義弟が帰ってきた〃と思った。しかし、仏間に並ぶ白い布袋に納まった骨壷を目にして、
「そうか、あれは義弟ではない」と自分に言い聞かすのだった。
 それから、一週間ほどしてわたしは夢をみた。
 夢でわたしは二階の部屋で寝ている。その階段の上がり框で、義弟がしきりに、『うどんを食いに行こう』と誘う。『今、いきたくない』とわたしが応えている。義弟の誘いは執拗だった。その誘いをわたしは、執拗に断り続けて目が覚めた。しばらく、ボヤーッとしていたが、しだいに意識がかえってくる中で夢を思い出していた。『誘いに乗らなかったな…!』と思いだしながら、なぜか『そんなもんか!』と、ひとり納得しながら明るくなった窓に目やっていたのだった。

2020年7月18日 (土)

「入鹿公」! なぜ公がつく?

歴史探訪をしていると、土地土地で歴史上の人物評価にかなりの違いがあるのを見る。

もう20年も前に、畝傍山の北で入鹿神社なる小社に出くわした。「入鹿公」と碑にあった。中学の歴史教室以来、蘇我入鹿に「公」がつくのを見るのは初めて。少なからず興味を持った。そんな記憶から、コロナ騒ぎが一段落した6月中頃の探訪で入鹿神社を一ポイントに選んだ。そうなると、蘇我入鹿にも、多少は私なりの説明が欲しい。

そこで、手元にある藤原仲麻呂が「大師」と署名する『藤氏家伝上巻』や『日本書紀』などにあたった。その中で面白いと思ったのは広辞苑の解説。幸いこの辞書は一版から五版まで手元にある。それらによる蘇我入鹿についての説明を要約すると、

一版(昭和30年)飛鳥時代の朝臣…国政をほしいままにし、山背大兄王を殺したが、皇極4年、中大兄皇子、中臣鎌足に誅せられた。

三版(昭和58年)では、朝臣が権臣とかわるだけで、一版を踏襲。

四版(平成3年)、三版を踏襲

五版(平成10年)はかなりの変化を見る。それまで「国政をほしいままにし」や「権臣」が、批判的記述を去り、単に「飛鳥時代の豪族」と客観的表現へ。更には、皇室に弓弾く「悪人を殺す」を言う「誅」が、敵対同士の勝者側の表現「滅ぼす」と訂正されている。

しかし、問題は二版(昭和44年)だ。蘇我氏についても、馬子、蝦夷、入鹿の本宗家三代の項目も消えている。なぜ?

これは憶測だが、この二版作成段階で、編集者間に蘇我氏悪人説についての意見に相当な異なりが生じ一つにはまとまらなかった。当時、天皇制や皇室について、国民の感情、意見にかなりの「ゆるぎ」があったのじゃないか? そんなゆるぎの中、二版出版の翌年、三島由紀夫が「天皇への強い志」の檄を飛ばし、自決している。両者に多少の繋がりはありはしまいか。「版を重ねる辞書だからこそ、各時代の姿を映していますね」と蘇我入鹿に因む話で場をつないだ。

(川柳ポエトリー「道の花舎」№114  2020夏号 紙上より)

2019年8月 2日 (金)

ラッキョウ騒動

 気兼ねなく付き合っている吉村と、窓から、緑をふかめる高円山が望める、いつもの喫茶店で寛いでいると、
「とんでもない問題をもちこまれた」と、グチリ出した。


 吉村の話では、大和路ウオーク仲間、男女三人ずつ六人が散策の後、気楽にビールがやれる立ち飲み処でワイワイやっていた。すると、どこからそんな話題になったのか、急に〃ラッキョウが好きと、嫌い〃派が三対三に分かれて、ああだ、こうだと言い始めたらしい。しかし、此の勝負は決着がつかず、それではと、それぞれの派が、好きな人と嫌いな人の頭数の多少で決着をつけようと、暖簾をくぐってくる見も知らないお客さんにまで「ラッキョウ、好き、嫌い」と声をかけだした。あまり物おじしない吉村も、『エエッ! ちょっとやりすぎ』と驚いた。ところが、入ってきた女性の三人組など、唐突で不躾な問いかけにもかかわらず、即座に「好き」「嫌い」と応えたという。こんな無茶を繰り返したが、勝負はつかなかった。〃好き〃と〃嫌い〃がほぼ半々の結果になったらしい。


 〃嫌い〃派はそれでは納まらず、
「吉村、お前ラッキョウについて、あの気味の悪い字と、ラッキョウという言葉の語源を調べろ」と、嫌い派の旗頭が言い出した。なんでもその男が言うには、〃薤〃の草冠りはよいとして、歹は『悪いとか、肉を削ぎ落とした骨片』の意味があり、それに加えてニラ〃韭〃という字が合わさっている。この字を思いだすだけでも寒イボが立つと。
「それで、調べたのか?」
「ああ、調べているうちに、興味が沸いてきて図書館通いをした」 「どんなことになった? 聞かせろよ」と注文をだすと、吉村は待ってましたと言わんばかりに、成果を披露し始めた。


 吉村の話を要約すると、まず文字。〃薤〃をラッキョウとよむのは、訓読みではない。手元にある江戸時代の中頃に出た百科事典『和漢三才圖会』の、匂いのある草をいう葷草の欄に〃薤〃があり、〃おふにら〃と訓み仮名がつき、次の〃水晶葱〃に〃らつきよ〃とあった。ただこれだけでは、もう一つ解らないと考えていたが、翌朝目を覚まして、図書館の開架の一角に、文献を網羅する『古事類苑』という百科事典があったのを思い出した。見出し語の解説にはすべてその出典名があり、その説明は資料をそのまま抜き書きしている。その植物部、草の項に〃薤〃を見つけた。 「それで、ラッキョウについて判明した?」
「問題は残ったが、おおよそのところはナ。まず〃薤〃という文字だが、薤という一文字をラッキョウと読むのは、訓読みでも音読みでもないことがわかった」
「訓読みと音読み以外に、読み方がある? はじめて聞くことだ。それはいったい何だ」
「一般に造語や造字、国字というのは知ってるだろう。榊など日本で造った国字。その伝でいくと〃薤〃をラッキョウと読むのは、造読み、国字式に言えば国読みだよ」
「それも初めて聞く言葉だナ」
「薤は中国音で〃カイ・ガイ〃とか〃ケイ・ゲイ〃としか発音しない。ラッキヨウなどと一字で二音読みする漢字はみあたらないよ」
「じゃあ、薤をラッキョウと日本読みしたのは? …どうかんがえても音読みに思えるが…」 
「日本の訓読みは、いずれも平安時代前半に出たもので、漢和辞典『新撰字鏡』というのと、薬用になる植物を書いた『本草和名』があった。それらには、いずれも〃薤〃を奈女彌良(なめみら)とか、於保美良(おほみら)と読んでいる。これが訓読みだろう」 「じゃあ、一体ラッキョウと読んだのはいつ頃?」
「新撰字鏡や本草和名の少し後に出た『倭名類聚抄』簡単に和名抄と呼ぶのには、本草和名を引用、奈女彌良と読んでいる。それから以後、西暦1700年の直前までラツキヨウと書いたものは無い」
「平安時代はミラか! ニラとは言わなかった?」
「平安時代の後半にでた〃類聚名義抄〃にオホミラやナメミラに混じってニラが登場している。ミラとニラは音が通じたようだ」
「そうなると、ラッキョウと、はっきり読んだのは、いつごろからなんだ」
「元禄というから、江戸時代。その十一年(一六九八)に成立したらしい『書言字考節用集』という辞書に〃薤〃にラツキヨウ、ヤブニラ〃と振り仮名をしている」
「しかし、平安時代前半から、江戸時代の元禄では八百年前後の時間差がある。いつ薤をラッキョウと読んだか、ちょっとボヤケタ話になるな」
「実はそうなんだ。『古事類苑』では、そこまでしか解らない。残念ながら」
「なんとかならないのか。なにか資料がありそうだが…」
 この日の話はここで終わった。それから一週間後の午後、例の喫茶店で、仕事疲れをコーヒで癒していると、吉村が何を気にしてるのか、後を振り向き振り向き店の扉を開けた。
 聞いてみると、子犬とじゃれあっていた幼児が尻餅をついて泣き出したらしい。その泣き顔が可愛いと、吉村自身邪気のない表情で話した。
「ところで、ラッキョウの方はどうなった?」
「学生の頃、ちょっと参考にページを開いたことがある日葡辞書、ニッポ辞書と読むが、日本語をポルトガル語に訳した辞書があるのを思い出した」
「どうだった。何か発見があった?」
「裏側からの発見があった。この辞書は江戸幕府が開かれたのと同じ頃、一六〇三~四年にポルトガルの宣教師たちが作っている。これには〃ラッキョウ〃の項目が無かったNiraやNinnicu、ニラ、ニンニクはあるのに…。ただRacqioという見出し語があり、期待したが、これは日本語で書くと〃楽居〃のこと。煩わしいことがなくなり、解放された状態で居ることだった。この辞書はかなりの日本語を収録している。いわゆる卑語まで収めている。それを考え合わせると、Racqioの項目があるくらいだから、当時、一般にラッキョウという言葉が日本でつかわれていたら、当然、収録されたと考えて大過ないだろう。と考えると、一六〇三~四年にはまだラッキョウという言葉は一般には使われていなかったことになる。使われたと判断できる資料は、もう百年近く後、一六九七年頃にでた食べ物の事典『本朝食鑑』の〃羅津岐與(ラツキヨ)〃や『農業全書』の〃らつけう〃まで待たねばならない」
「そうか! ただ、その場合でも百年近い時間差があり、もうひと苦労というところか! 時間がかかりそうだナ。なんだか、海図を持たず大海原へ乗り出すような話になってきた」
「そうだ。言葉のルーツを探すのって、興味はあるからやっているが、簡単ではない。好き嫌いと主張する連中に一杯おごらせたい気持だヨ」
「ところでこんな事、参考にはならないだろうが、図書館を覗いたついでに、『日本国語大辞典』と『大漢和辞典』を調べてみた」 「成る程、解らない時は、単刀直入、相手の臍を狙えか。で、どうだった?」
「国語辞典の方はラッキョウに漢字の辣韮、辣韭、薤があててあった。辣の字にであうのは初めて。で、早速、漢和辞典で〃辣〃の項をしらべてみた。辣韮、辣薤。辣薑があり、皆ラツキヤウと読みがついていた。目を次の見出し語へ移すと、〃辣根〃があり、〃わさび、山葵〃。次の〃辣菜〃には、〃禅家にて漬物をいふ〃とあった。この禅家、僧侶のことだろう?」
「禅宗の坊さんだ。なんだか見えてくるものがあるナ!」
「そうだろう。〃薤〃を〃おおみら〃と訓読みしていたのを、中国に辣薤という言葉があることから、薤一字で、ラッキョウと読んだ。漬物を辣菜などと、ちょっと気取った言いかたをしている坊さんだけに、薤一字にラッキョウと読みをつけた疑いは充分にありそうだろう」
「とすると、江戸時代になって、坊さん仲間でつかっていた読み方が外へ出て、一般に使われだしたことになる。これに似たことがあるよナ。二上山がそうだ。もとは〃ふたがみやま〃だったのを、当時ではインテリだった坊さん達が、〃ニジョウザン〃と音読みした。これなど本居宣長は、けしからんと怒っている」

 話はここで一段落。吉村は冷えたコーヒを一気にのみこんで、一息つき、
「ラッキョウ好き人間が、手をたたいて喜ぶことが、『農業全書』に書かれていたよ」
「……………………?」
「〃…味少し辛く、さのみ臭からず、功能ある物にて、人(体の欠陥)を補ひ温め、又は学問する人つねに是を食すれば神(思いおよばない域)に通じ、魂魄を安んずる物なり〃と。つまり、身体の弱っているところを治し、体を温め、頭をスッキリさせ、思いも及ばない能力を得て、かつ精神が安定すると言うわけだ」
「現在の、その手の薬効宣伝をはるかに越える効能書きだ。本当かよ!」
「よく解らん。まるでラッキョウ信仰のお経のようで、調子良すぎるよな」
 話し終わった吉村は自らが紹介したものに、フーンそんなものかという顔をした。その表情から、彼はラッキョウ大好き人間というわけではない、と思えた。しかし、それは言わなかった。

 

2016年9月14日 (水)

特攻隊長岩本益臣

 東大寺戒壇院の四天王像を知ったのは中学生時代であった。以来数十年、脳裏から消えることはない。特に広目天像は時として眼前に浮かんでくる。憚ることのない視線。その視線を、しかし、まともに受けたことがない。受けられないのだ。幾度かはこの広目天像の正面に立ってはきたが、その都度相手にされず弾き飛ばされるばかりである。もう、そろそろ対峙できてもと思うが、やはり駄目。このままだと、生涯、真正面に立つことはできないのではないかと思えてくる。何時かきっとと思うだけで、確かな見込みはない。

 話はかわるが、毎日買い物に行くスーパーの隣に古本屋が店をだす。自転車で通りかかるくらいだが、時々は立ち寄ってみる。と、言っても店内の値のはるものには手が出なくて、店頭に並ぶ捨て値のものが専ら。

 ゴッホの展覧会場で売られたと思える分厚いカタログ本百円、シルクロードの文物展のこれも立派ではあるがカタログ本、これも百円。掘り出し物と思ったのは岩波古典文学大系の今昔物語一~五の全巻、五冊で五百円だったことだ。ちらっと見て、一冊五百円と思った。それでも安い。ただこの今昔物語は四と五をすでに持っていたので、店の主人に一~三だけ売ってくれないかと頼むと、安くしているのだから、それは出来ないとのこと。まあいいかと、千円の無駄を見込んで買うことにした。ところが、二千五百円を机に置くと、主人が怪訝な顔をする。不満でもあるのかと訝ると、二千円を返しながら、「五冊で五百円」とぶっきらぼうに一言。この五冊は今、私の本棚の一角に並んで、読み物になったり、ちょっとした資料にもなったりしている。

 数日して、例によって、自転車に跨がったまま店頭にあまり丁寧とはいいがたい並べ方をされている古本を見回し、『一億人の昭和史』という、週刊誌より紙質もよく分厚いグラビア本を目にした。自転車を降りて、パラパラやると、「毎日新聞社、昭和五十六年発行」とある。裏表紙には、メガネの「HOYA」の広告があり、モデルにプロ野球のオールドファンには懐かしい「別当薫」が登場していた。手にしたのは、「太平洋戦争 死闘1347日」とある。掲載写真は豊富で、日本にあるものばかりではなく、アメリカの資料なども使用している。京都生まれの京都育ちで、戦災、特に空襲など実際には目撃したことがない者には、「空襲・敗戦・引揚」や「日本占領 ゼロからの出発」などが目新しく三冊を買うことにした。計三百円。

 枕元に置いて、就寝前の小一時間ほどページをくっている。

 「太平洋戦争…」のには、「死を賭けた青春」と副題があり、特攻隊員の姿を飾らず気取らず掲載。その一葉に、特攻機に搭乗する兵士の写真を見つけた。説明に戦死前日の陸軍特攻隊万朶隊飛行隊長・岩本益臣大尉(一九年一一月五日 比島リバ飛行場)」と書く。魅せられたのは、大尉の顔立ち。死出の時の表情には違いないが、静かである。凛とした目鼻立ち、結んだ口元。死を目前にして、全ての思い、両親、家族、そして若い隊員たちへの惜別、惜情、さらにはみずからの命のこと、日本の国のこと、それだけでは言い尽くせない思い、それら全てを懐、心の裏にして、しかも視線は濁ることなく澄明、水平線の彼方、いやそれさえ突き抜けてさらに遠く遠くへ届かせている。その姿に、心騒がぬ静かな「感動」をもらった。

 そして、この目をもってすれば、あの広目天像に対峙出来ると思った。「対峙」はなお言葉が卑しい、なんだかそんな言葉を使うのが恥ずかしい気がした。

 

2016年8月20日 (土)

ピンク色の茶碗

 夢をみていた。

 田圃の畦で、二本の杭で支えた看板を背にして、チラシを持った男がポツリポツリ通りかかる人に、何だか呼びかけている。

 チラシには、写真展があり、出品作品を募集していると書かれていた。応募費は三千円。このあたりで、夢から覚めた、というよりは夢と現の間を浮遊しているといったほうが正しい。

 『あれが写真にできれば、入賞できる』と咄嗟に考えていた。

 数年前、近くのスーパーの茶碗売り場に珍しく抹茶茶碗が出ていた。木箱はもちろん紙箱もついていない、剥き出し。値段は四百円。

 『煮物容れぐらいにはなるか?』と買って帰った。

 全体が紅色を薄くした、いわゆるピンク色で、正面とおぼしきあたりに、葡萄色の線画が施されている。造りは整っていない円形で両掌に少し余る大振り。

 今、この茶碗は、洋酒や金ピカラベルの安物紹興酒、ヒビのはいったコーヒカップなどが雑然と並ぶ飾りケースに納まっている。しかも、さらしものにするかのように、最上壇、何が入っているのか忘れている紙箱の上に、わざわざ鎮座させられている。

 『いくらなんでも、もうすこしましな茶碗と置き替えるか?』と、思ったこともあった。

 このケースの中には、老陶芸家が自ら選んで贈ってくれた抹茶茶碗が三、四客あるはず。でも、これ見よがしに、それを出すのもわざとらしいか? と不精の言い訳をしながら、ピンク茶碗をそのままにしていた。

 飾りケースは、食卓から、狭い廊下を挟んだ壁際にあり、ちょっと横を向くといやでもこの茶碗が目にはいる。しかも真っ正面に。それを目の端にしながら、おおかたは気にも留めてこなかった。

 ところが一度、

 『お前なあ、少しは茶器らしい色合いを出せよ。手触りは志野風で、まあまあなんだからさあ』と話かけたことがあった。

 それからどのくらい経ったころか、一日中歩き回って、ヤレヤレと、食卓につくと、ピンク茶碗があいも変わらぬ姿で目にはいった。不思議にその時、ホッと一息つくおもいがした。葡萄色の模様がピンク色になじんでいる。

 こんなことがあってから、

 『オイッ! 今帰ったよ』と声をかけたり、

 『ちょっと、今日は淋しそうじゃないか』などと話かけるようになっていた。

 そんな或る日、浮き上がっていた、茶碗のピンクの色合いが少しさめて、咲き出す前の桜の蕾が持つ薄紅色に変わっているように感じられた。葡萄色の線画も、我を主張せず、薄紅色によくマッチ。

 『おっ! 美しくなったじゃないか』と思わず茶碗を掌にとって、手触り、風合を褒めてやった。その時、薄紅色が恥ずかしそうに、ニコッとするのを見た。

 この茶碗がうつむき加減に見せた微笑み、これをカメラで捕らえられたら、写真展で入賞できると、チラシを見ながら考えていた。

 ここまできて、完全に夢から覚めた。部屋には朝の光が充満している。雑然と積まれた本が部屋を占拠。あいもかわらぬむさくるしい光景が遠慮なく視界をうばうばかりであった。 

 

2016年8月11日 (木)

永き夜は…

 夢と現の狭間でなにかモガモガやっていた。

 中の娘の相手から「永き世は…」で始まる俳句とも短歌ともつかない一句が届いた。

 うまいものだと、感心させられた。が、残念なことにその下の句をすっかり忘れてしまった。ただ、「俺には到底詠めない」と思ったことだけは、不思議に頭に残っていた。

 そんな思いが強かったのか、夢と現の狭間で、お返しの句を作っていた。

 「永き夜は

  永き世の外に

  出でもみよ…」

 

 このあたりで夢の領域が随分狭くなっていたように記憶する。そして、続きは、

 「銀河の河原に星ひろい

  サクサクサクと星を踏み…」

 

 ここで完全に夢から覚めた。水を一杯飲んで、しつこく続きを考えた。

 「星の流れを美ともせず

  思いはるけく辿りゆく

  そは いずれの国へか

  いずれの女人へか」

 

  ここで、タバコをやりたくて中断。

  性懲りもなく、また続ける。しかし、段々つまらないものになる。

 「遠きに音あり

  そが 何か確かめもせず

  銀の河原を歩みゆく」

 

もう、どんなものになるか、斟酌せず乱暴に

 「永き夜に 

  永き世に帰るあてなく

  一人ゆく

  河原の輝き 美ともせず」

 

 中の娘の相手は、この返事をどんなように読んでくれるか? 『ナンダこれはツマラン』で終わるとは思っているが…。

  

2016年8月 2日 (火)

仏像拝観

仙台に住むメル友が、大和の仏像を拝観したい、ついては、その案内役を引き受けて欲しいと言ってきた。

 

ルートはお任せするが、斑鳩中宮寺の弥勒菩薩は是非加えてくれ、時期はポスターで知った『素顔の大和路』の寒い時期が良いと言う。

そこで、手のあく二月十三、四、五日を選んだ。

 

彼女はあまり細かい古代史には不案内ゆえポピュラーなスポットということで、大和路を代表する西の京の薬師寺、唐招提寺、少し足を伸ばして斑鳩の法隆寺と、ご注文の中宮寺を初日のコースとした。翌十四日は飛鳥。最後の十五日は、桜井の聖林寺。この寺の十一面観音さんは、彼女に拝観して欲しい天平仏だった。そこから大神神社を軸にした山の辺の道を歩いてみようと考えた。

 

一日目を無事終えて、彼女の宿舎近くで、慰労をかねた食事会となった。多少はイケルくちの彼女は、うっすら頬を染めて、その日の仏さまめぐりの余情にひたっているようだった。

そんな彼女が、言葉少なに、「仏像には二種類あるんですね」とつぶやいた。

面白い意見だと話の続きを促すと、彼女はトツトツと話し始めた。 「中宮寺の弥勒さまは、思っていた以上に清々しく、頬に軽く触れるような右手の指先、その掌の清楚な膨らみ、繊細な指、肩から流れ下るような上半身の曲線。そのお顔には微かなはにかみを含んだ微笑みを湛えておられました。まさに『聖女』でした。畳に座して拝観しているうちに、私の心が空っぽになっていくのを感じました。そして、その空っぽになった心を爽やかな風が吹き抜けるのを覚えました。私は、この弥勒さまの前で、生まれかわる気がしました。

 

彼女はゆっくりそれだけを言うと、焦点を遠くにした目になって、心にのこる感動に浸っていくように見えた。

しばらくして、もう一つの仏さんは? と声をかけると、しばらくおいて、我にかえった彼女は、法隆寺の百済観音さんのことを話し始めた。

百済観音さまは、随分背丈があり、少し視線を上げると、あの繊細優美な手指が私をとらえました。次は、流露な衣の線、その流れの美しさを心ゆくまで目で辿りました。そこから目を上げて、お顔を拝しました。しばし、お顔を見つめていると、観音さまが私に何か話しかけておられるのを感じたのです。仏さまが、話しかけられるのを知ったのは初めてのことでした。私はその時、私が観音さまを拝観しているのではなく、観音さまが私に優しく目をかけて下さっているのに気付いたのです。

そして、そのお言葉が聞こえるように心を澄ましました。

『あなたが歩んできた、そして、歩んでいこうとする道は、それだけで貴いものです。なにがあろうと、すべて恕します』と聞こえたと、これもトツトツと彼女は語った。

お姿を拝むだけで、沈黙のうちに心洗ってくださり、心新しくして下さる仏さまと、私が生きてきた道、また生きようとする道を温かく見守り、それでいいのですよと、うなずいて下さる仏さま。

「私は心を深くする時をもらった」と、彼女は結んだ。

 

わたしはこの話を聞きながら、遠い国の二つの女人の名画を思っていた。一つは前に立つだけで、心の底まで見通し、微笑みかける。もう一つは、前に立つ者に語りかけるもの。ただ、後者はその語りかけに『全てを恕るす』という言葉は無い気がする。不思議に悲しみを湛えた口元が優しいが…。

 

もう遅くなっていた。明日の大和路めぐりのために、休養を欲しがる時刻になっている。彼女を宿舎まで送って、さて、明日の飛鳥路、次の聖林寺詣で、彼女はなにを見つけてくれるか?

そんなことを思いながら好天続きを約束する星空を仰ぎながら帰途についた。

 

2016年7月14日 (木)

「コーヒーカップと話す」

 「私を探すのにずいぶん苦労なすったらしいですね」

 「まあな。街を歩いていて目についた食器屋や陶磁器の店は、のこらず物色してきた」

 「そんなに探しまわるほど、私のどこがお気にめしたの?」

 「すこし前まで、洋陶、確かイギリス製だったと思うが…、大ぶりのコーヒーカップ、あのころはマグカップと呼んでいた。そのカップの姿が上品でふくよかだった。長いこと使ううちに、ヒビがはいり、使えなくなったんだ。それで、同じような姿のカップを探していた」

 「ずいぶん、お気にいりだったのですね。で、私は二番目…?私には自分の姿がどう見えるのか、よく分からない。どこがどうなの?」

 「全体に縦長で、胸高にくびれ、そこから下は膨らみをみせ、最後はキリッと絞られている。ただ、膨らみが飲み口の口径より大きいと、品が落ちるし、小さいと貧弱に見える。しかも膨らみが穏やかで、煽情的でないのがいい。美しい女性の後姿を思わす…」

 「私って、そんなに魅力ある?」

 「そうさ。やや太り気味だけれど」

 「それって、デブっていうこと?」

 「デブじゃない。太り肉と言うべきだろう。それはそれで魅力があるんだ」

 「それはそれでって、どんな魅力?」

 「……」

 「いやな目つきでジロジロ見ないでよ!」

 「お前さんのは、口径八センチに対し、高さが八・八センチ。ちょっとズンドウ型だ。比べて前のは七・三センチに、八・七センチ。わずかに細身」

 「……」

 「しかも、お前さんは、胸高の絞りが強く、それだけ下の膨らみが強調される。言ってみれば、成熟した女の姿というところ」

 「エエ、どうせ私はオバアサンですから…」

 「そんなに口を尖らすなよ。前のカップは多少スマートで、見た目には清々しい。が、お前さんは、両掌で持つとシットリ掌に馴染む暖かさがある。ゆったりと、深夜、ひとりでコーヒーを、という時はやはり、お前だ」

 「……」

 「真夜中に窓を開けると、時として風鈴を聞くことがある。ひとり深夜に風鈴を聞くのは淋しい。そんな時、お前に、少し苦味のあるコーヒーを注ぎ、両掌で包むように支えて…。幼いころから馴染んできた人肌の温もりが感じられ、安心と和みが、気持ちを柔らげてくれる」

 「……」

 ここで、フッと目が覚めた。夢をみていたのだと、しばらくして気がついた。

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